ブラームス ピアノソナタ 第1番 第4楽章の動画集です。
音源: CD [The Piano Life] より 「ピティナ・ピアノ曲事典」より
この曲の手書きのスコアには、「ソナタ第4番」という書き込みがあり、ブラームスの最初のソナタではない。出版の都合がおもな原因で、作品1となったが、実際は、作品3やソナタや作品4のスケルツォよりあとに作曲されたものである。第1、2楽章は1852年4月に、3、4楽章は1853年春にそれぞれハンブルクで作曲された。若きブラームスのあふれんばかりの情熱が注ぎ込まれた大作であり、ブラームス自身もこのソナタに自信をもっていたようである。
全曲は第1楽章の第1主題の進行形で統一されている。
第4楽章:アレグロ・コン・フォーコ、ハ長調、八分の九拍子。ロンド形式。スコットランドの民謡的な詩人の詩「わが心はハイランド」のドイツ語訳から霊感を受けてこの楽章を書いたといわれている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ドイツの作曲家。19世紀ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者。ドイツ音楽における「三大B」とも称される。ドイツロマン派の代表的な作曲家といえる。
ハンブルクに生まれ、ウィーンに没した。音楽家である父から最初の手ほどきを受けたあと、地元ハンブルクの教師からピアノや作曲を学んだ。1853年、生涯の友人となるヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムと知り合ったほか、ワイマールにリストを訪ね、9月にはかねてより理想的な音楽家と考えていたロベルト・シューマンとデュッセルドルフで会見し、激賞を受けた。翌年、自殺未遂を図ったシューマンの一家を援助するべくデュッセルドルフを再訪。シューマン夫人のクララとは当初恋愛感情で、後に深い友情をもって終生交流が続いた。
1862年、拠点をハンブルクからウィーンへ移した。ウィーンではすぐに芸術界に受け入れられ、次第に活躍の場を広げた。1868年には同地に定住を決意。この時期、指揮者としての演奏活動も行っていたが、1875年にはこの分野から撤退。より作曲に注力するようになった。この頃には国際的な名声を確実なものとし、存命中に数々の栄誉に浴した。
ブラームスのピアノ作品は創作活動期間の初期と末期に集中して作られている。彼の音楽性の変遷を観察する上では極めて重要な作品群である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。桐朋女子高等学校音楽科卒業。ハンガリー国立リスト音楽院卒業。修士課程、演奏家資格取得。第7回 日本クラシック音楽コンクール 第2位、第6回 アントン・ルビンシュタイン国際ピアノコンクール第3位、第6回 ヨハネス・ブラームス国際音楽コンクール第1位。イタリア・ローマ国立音楽祭への出演など、日本・ヨーロッパで室内楽・ソロリサイタルに出演している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
演奏と一緒に楽譜を見ることができます。
この曲の手書きのスコアには、「ソナタ第4番」という書き込みがあり、ブラームスの最初のソナタではない。出版の都合がおもな原因で、作品1となったが、実際は、作品3やソナタや作品4のスケルツォよりあとに作曲されたものである。第1、2楽章は1852年4月に、3、4楽章は1853年春にそれぞれハンブルクで作曲された。若きブラームスのあふれんばかりの情熱が注ぎ込まれた大作であり、ブラームス自身もこのソナタに自信をもっていたようである。
全曲は第1楽章の第1主題の進行形で統一されている。
第4楽章:アレグロ・コン・フォーコ、ハ長調、八分の九拍子。ロンド形式。スコットランドの民謡的な詩人の詩「わが心はハイランド」のドイツ語訳から霊感を受けてこの楽章を書いたといわれている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ドイツの作曲家。19世紀ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者。ドイツ音楽における「三大B」とも称される。ドイツロマン派の代表的な作曲家といえる。
ハンブルクに生まれ、ウィーンに没した。音楽家である父から最初の手ほどきを受けたあと、地元ハンブルクの教師からピアノや作曲を学んだ。1853年、生涯の友人となるヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムと知り合ったほか、ワイマールにリストを訪ね、9月にはかねてより理想的な音楽家と考えていたロベルト・シューマンとデュッセルドルフで会見し、激賞を受けた。翌年、自殺未遂を図ったシューマンの一家を援助するべくデュッセルドルフを再訪。シューマン夫人のクララとは当初恋愛感情で、後に深い友情をもって終生交流が続いた。
1862年、拠点をハンブルクからウィーンへ移した。ウィーンではすぐに芸術界に受け入れられ、次第に活躍の場を広げた。1868年には同地に定住を決意。この時期、指揮者としての演奏活動も行っていたが、1875年にはこの分野から撤退。より作曲に注力するようになった。この頃には国際的な名声を確実なものとし、存命中に数々の栄誉に浴した。
ブラームスのピアノ作品は創作活動期間の初期と末期に集中して作られている。彼の音楽性の変遷を観察する上では極めて重要な作品群である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ドイツのピアニストである。ドレスデン生まれ。ドレスデン音楽大学で学んだ後、モスクワに留学しモスクワ音楽院でドミトリー・バシキーロフとレフ・オボーリンに師事した。1966年のチャイコフスキー国際コンクールに出場し6位に入賞したほか、1968年にはモントリオール国際ピアノコンクールで2位に入賞した。現在はドレスデンに在住し、母校のドレスデン音楽大学で教えている。
2005年にはドレスデン音楽祭で紀尾井シンフォニエッタ東京との共演によりベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を演奏した。この縁がもととなり2007年4月に日本では30年振りとなるコンサートを紀尾井ホールで開催した。2007年の第3回仙台国際音楽コンクールではピアノ部門の審査副委員長を務めた。