ブラームス 小品Op.76 全曲動画集 | Mボックス

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ブラームス 小品Op.76 全曲動画集

ブラームス 小品 Op.76 全曲の動画集です。

ブラームス 小品集 Op.76

ブラームス 小品 作品76

BRAHMS Klavierstücke Op.76

ブラームスの小品集 Op.76 全7曲です。
ブラームスの作曲した全8曲からなるピアノのための性格的小品集です。
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アルバム収録曲一覧

1. 8つの小品 作品76 全曲 / ブラームス,ヨハネス / オピッツ,ゲルンハルト

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楽曲解説 - 8つの小品 作品76 全曲

本作品集は1871年より第1番の作曲が開始されたが、曲集としてまとめられたのは1878年ペルチャッハ滞在中であった。この時期、とりわけ1877年から79年は、ブラームスの創作活動が最も盛んな時期とされている。初版は1879年に出版された。全曲の初演は1879年10月29日、ハンス・フォン・ビューロー(1830-94)によってベルリンで行われた。ビューローはドイツでも指折りの指揮者でありピアノの名手あった。ビューローはブラームスの良き理解者でもあった。彼はこの曲集を好み、各地で演奏したという。

本曲集は二部構成となっており、第1番から第4番が第一集、第5番以降が第二集となる。第一集、第二集ともカプリッチョとインテルメッツォが含まれている。この作品は、ブラームスの後期作品の出発点とみなすことも出来るとされており、全体的に見て、カプリッチョは動きの多い曲で、インテルメッツォは内省的な性格を持っている。しかし、彼はこれらの作品のタイトルを決めるのを困難に思っていたようで、出版社のジムロック宛に何か良いタイトルを思いつくかどうか尋ねている。ブラームスは、インテルメッツォという名称を気まぐれでも情熱的でもないものに対して付けていたようである。

第1番 奇想曲 嬰へ短調 "Capriccio" fis moll。1871年に作曲。同年9月、クララ・シューマンの誕生日に贈られたとされる。

第2番 奇想曲 ロ短調 "Capriccio" h moll。本曲は最も早く初演が行われており、1879年10月22日 イグナーツ・ブリュル(1846-1907)によって披露された。スタッカートが絶えず用いられている、躍動感溢れる作品。冒頭の主題には、左手で奏される音の弱拍にアクセントが付けられているのが特徴的である。

第3番 間奏曲 変イ長調 "Intermezzo" As dur。1878年頃までに作曲されたとされている。冒頭にはドイツ語で「優雅に、表現豊かに(Anmutig, ausdrucksvoll)」との指示もあり、弱拍から始まる高音域の旋律が印象的な静かな作品。

第4番 間奏曲 変ロ長調 "Intermezzo" B dur。1878年頃までに作曲されたとされている。三部形式。旋律は付点のリズムが多く用いられている。

第5番 奇想曲 嬰ハ短調 "Capriccio" cis moll。第二集の最初の曲であり、1878年頃に作曲されたとされている。冒頭にはドイツ語で「きわめて興奮して、しかし速すぎずに(Sehr aufgeregt,doch nicht zu schnell)」と指示があるように、前曲と打って変わって、オクターヴを打ち鳴らす激しい曲。本曲集の中では規模の大きい部類に入り、ピアノの技巧的にも比較的難度のある曲だと思われる。

第6番 間奏曲 イ長調 "Intermezzo" A dur。1878年に作曲されたとされている。ドイツ語の指示は「穏やかな動きをもって(Sanft bewegt)」となっているように、落ち着いた作品。ポリリズム(異なるリズムあるいは拍節が重ね合わされることを意味する。中世の多声音楽あるいはジャズなどによく見られる)が用いられている。

第7番 間奏曲 イ短調 "Intermezzo" a moll。1878年に作曲されたとされている。冒頭の主題は重々しく和音主体で、この主題が楽曲の始めと終わりに用いられている。シンメトリーと捉えることも可能な形式になっている。

第8番 奇想曲 ハ長調 "Capriccio" C dur。1878年に作曲されたとされている。ドイツ語の指示は「優雅に生き生きと(Anmuthig lebhaft)」とあるように、華やかさも備えている。分散和音の音形と幅広い音域を用いたピアニスティックな作品。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - ブラームス,ヨハネス

ドイツの作曲家。19世紀ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者。ドイツ音楽における「三大B」とも称される。ドイツロマン派の代表的な作曲家といえる。

ハンブルクに生まれ、ウィーンに没した。音楽家である父から最初の手ほどきを受けたあと、地元ハンブルクの教師からピアノや作曲を学んだ。1853年、生涯の友人となるヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムと知り合ったほか、ワイマールにリストを訪ね、9月にはかねてより理想的な音楽家と考えていたロベルト・シューマンとデュッセルドルフで会見し、激賞を受けた。翌年、自殺未遂を図ったシューマンの一家を援助するべくデュッセルドルフを再訪。シューマン夫人のクララとは当初恋愛感情で、後に深い友情をもって終生交流が続いた。

1862年、拠点をハンブルクからウィーンへ移した。ウィーンではすぐに芸術界に受け入れられ、次第に活躍の場を広げた。1868年には同地に定住を決意。この時期、指揮者としての演奏活動も行っていたが、1875年にはこの分野から撤退。より作曲に注力するようになった。この頃には国際的な名声を確実なものとし、存命中に数々の栄誉に浴した。

ブラームスのピアノ作品は創作活動期間の初期と末期に集中して作られている。彼の音楽性の変遷を観察する上では極めて重要な作品群である。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - オピッツ,ゲルンハルト

ドイツ出身のピアニスト。