リスト 超絶技巧練習曲S.139 全曲の動画集です。
この曲集の原型は1826年頃「すべての長短調の練習のための48の練習曲」として実際に作られた12曲がパリで出版されたものであり、その後1838年に「24の大練習曲」として(実際に書かれたのはやはり12曲)、計2度の改訂を経て最終的に1851年「超絶技巧練習曲集」として完成した。調性はハ長調から始まって平行短調を添えて五度圏を逆回りして変ロ短調で終わっている。ただし標題は初めから意図されたものではなく、出版する際にリスト自身か出版者によって付けられたものである。ヴィルトーゾとしてヨーロッパ中を風靡したリストの名技を後世に伝える傑作だといえよう。
第1番 ハ長調「プレリュード」 / C dur "Preludio"。ハ長調。たった23小節しかないが、その中にはあくまで即興的な様々なモチーフが盛り込まれている。前代未聞の壮大な練習曲集の幕開けにふさわしい華やかな作品である。
第2番 イ短調(標題なし) / a moll。イ短調。10番と共に標題が付けられなかった2曲のうちの1曲だが、冒頭の「A capriccio(気まぐれに)」が曲の雰囲気をよく表わしているだろう。若い頃の旧作が改訂されたためもあり、燃えるようなテンペラメントとスタッカートが多用された歯切れのよい曲である。
第3番 ヘ長調「風景」 / F dur "Paysage"。へ長調。田園風で静かな一幅の風景画のような曲である。動きの激しい第2番とドラマティックな第4番の間にこの曲を挿入したのは、ドラマと詩的要素のバランスと対比を考慮した上でのことと思われる。中間部「Un poco piu animato il tempo」に入り多少テンポが揺れて音量もffまで高揚するが最後は再びもとの静けさに戻って終わる。
第4番 ニ短調「マゼッパ」 / d moll "Mazeppa"。ニ短調。マゼッパとはフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの叙事詩「マゼッパ」に現われる英雄である。諸説あるようだがまずこの詩を読んだリストが感銘を受けまずピアノ曲に、そして1851年に交響詩として管弦楽のために書き直し、さらにピアノ曲に書き戻してこの練習曲集に加えられたと思われる。テーマはユーゴーの詩にある「馬に縛り付けられて荒野に放されたマゼッパ」の情景だろう。これはカデンツァを挟んで変奏を繰り返し、最後はニ長調に変わって雄大に終わるが、最後の和音の欄外にはリスト自身の筆跡で「ついに終わった……しかし彼は再起して国王となった」と書かれているのでその喜びの表れだろう。
第5番 変ロ長調「鬼火」 / B dur "Feux follets"。変ロ長調。鬼火が音楽に取り入れられたのは、旅人の道を迷わせたシューベルトの連作歌曲集「冬の旅」からはじまったもので、リストはこの空想的で正体のないものの表現を細密な技巧で試みた。半音階からはじまり重音、跳躍などを駆使した、まさに「超絶技巧」という名にふさわしい難曲である。
第6番 ト短調「幻影」 / g moll "Vision"。ト短調。一説にはナポレオン1世の葬式の幻影だともいわれているが確かではない。曲は重苦しいLentoの主題ではじまりニ長調へ、アルペジオの音型を加えてオクターヴのカデンツァをはさみト長調へとどんどん変奏され、リスト独特の絢爛さのまま激しく終わる。
第7番 変ホ長調 「エロイカ」 / Es dur "Eroica"。変ホ長調。12歳の時Op.3として出版されていたアンプロンプチュの改作。減七和音ではじまるカデンツァ風の序奏に続き「Tempo di Marcia」で堂々とした行進曲風のテーマが現われる。ベートーヴェンの交響曲にもみられるように変ホ長調は英雄的な調性で、標題にふさわしい曲想を持っている。
第8番 ハ短調「荒野の狩」 / c moll "Wilde Jagd"。ハ短調。パガニーニ練習曲中の「狩」とは大きく異なり、こちらは猛獣狩りのように荒々しい。分散オクターヴと付点リズムによる第1主題とはじめppで提示される長調の第2主題が変奏と転調を繰り返しながら、最後はハ長調で終わる。
第9番 変イ長調「回想」 / As dur "Ricordanza"
変イ長調。第3番に続き詩的要素の強い穏やかな曲である。いくつかの主題はいずれも即興的で、何度も華麗なカデンツァをはさみながらドラマティックな盛り上がりを見せ、いかにもいろいろな人生のドラマを回想しているような美しい曲である。
第10番 ヘ短調(標題なし) / f moll。ヘ短調。はじめから題名のなかった曲で、何度も改訂を加えて練習曲として特殊なテクニックや書法の盛り込まれた作品となった。冒頭の左右交互の和音によるモチーフはagitatoのいらだちを表現し、その後も上行形とため息のような下降形とのモチーフがからみあい、最後まで不安定な印象を残す。
第11番 変ニ長調「夕べの調べ」 / Des dur "Harmonies du soir"。変ニ長調。最低音による鐘の音の模倣と美しい和音による序奏に続き、広い音域にわたるハープ風の伴奏にのせて魅力的なテーマが現われる。祈りのような「Piu lento con intimo sentimento」をはさみffでテーマは繰り返され分厚い和音によって盛り上がりをみせる。平和な夕べに鳴り響く美しい教会の鐘の「調べ」はリストの強い信仰心の表れだろう。
第12番 変ロ短調「雪かき」 / b moll "Chasse-neige"。変ロ短調。終始変わらない細かいトレモロは雪が降り積もる様だろう。それに乗せてたった6音からなる雪のうたが奏でられる。途中で現われる小さな半音階パッセージは突風だろうか。雪と風は次第に激しさを増し、最後は消え入るように終わってゆく。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南米チリ出身でアメリカを中心に活動したピアニスト。20世紀を代表するピアノの巨匠として知られた。
1941年、カーネギー・ホールにデビューし、翌年より本拠をアメリカに移す。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍(日本には1965年初来日)。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。
この曲集の原型は1826年頃「すべての長短調の練習のための48の練習曲」として実際に作られた12曲がパリで出版されたものであり、その後1838年に「24の大練習曲」として(実際に書かれたのはやはり12曲)、計2度の改訂を経て最終的に1851年「超絶技巧練習曲集」として完成した。調性はハ長調から始まって平行短調を添えて五度圏を逆回りして変ロ短調で終わっている。ただし標題は初めから意図されたものではなく、出版する際にリスト自身か出版者によって付けられたものである。ヴィルトーゾとしてヨーロッパ中を風靡したリストの名技を後世に伝える傑作だといえよう。
第1番 ハ長調「プレリュード」 / C dur "Preludio"。ハ長調。たった23小節しかないが、その中にはあくまで即興的な様々なモチーフが盛り込まれている。前代未聞の壮大な練習曲集の幕開けにふさわしい華やかな作品である。
第2番 イ短調(標題なし) / a moll。イ短調。10番と共に標題が付けられなかった2曲のうちの1曲だが、冒頭の「A capriccio(気まぐれに)」が曲の雰囲気をよく表わしているだろう。若い頃の旧作が改訂されたためもあり、燃えるようなテンペラメントとスタッカートが多用された歯切れのよい曲である。
第3番 ヘ長調「風景」 / F dur "Paysage"。へ長調。田園風で静かな一幅の風景画のような曲である。動きの激しい第2番とドラマティックな第4番の間にこの曲を挿入したのは、ドラマと詩的要素のバランスと対比を考慮した上でのことと思われる。中間部「Un poco piu animato il tempo」に入り多少テンポが揺れて音量もffまで高揚するが最後は再びもとの静けさに戻って終わる。
第4番 ニ短調「マゼッパ」 / d moll "Mazeppa"。ニ短調。マゼッパとはフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの叙事詩「マゼッパ」に現われる英雄である。諸説あるようだがまずこの詩を読んだリストが感銘を受けまずピアノ曲に、そして1851年に交響詩として管弦楽のために書き直し、さらにピアノ曲に書き戻してこの練習曲集に加えられたと思われる。テーマはユーゴーの詩にある「馬に縛り付けられて荒野に放されたマゼッパ」の情景だろう。これはカデンツァを挟んで変奏を繰り返し、最後はニ長調に変わって雄大に終わるが、最後の和音の欄外にはリスト自身の筆跡で「ついに終わった……しかし彼は再起して国王となった」と書かれているのでその喜びの表れだろう。
第5番 変ロ長調「鬼火」 / B dur "Feux follets"。変ロ長調。鬼火が音楽に取り入れられたのは、旅人の道を迷わせたシューベルトの連作歌曲集「冬の旅」からはじまったもので、リストはこの空想的で正体のないものの表現を細密な技巧で試みた。半音階からはじまり重音、跳躍などを駆使した、まさに「超絶技巧」という名にふさわしい難曲である。
第6番 ト短調「幻影」 / g moll "Vision"。ト短調。一説にはナポレオン1世の葬式の幻影だともいわれているが確かではない。曲は重苦しいLentoの主題ではじまりニ長調へ、アルペジオの音型を加えてオクターヴのカデンツァをはさみト長調へとどんどん変奏され、リスト独特の絢爛さのまま激しく終わる。
第7番 変ホ長調 「エロイカ」 / Es dur "Eroica"。変ホ長調。12歳の時Op.3として出版されていたアンプロンプチュの改作。減七和音ではじまるカデンツァ風の序奏に続き「Tempo di Marcia」で堂々とした行進曲風のテーマが現われる。ベートーヴェンの交響曲にもみられるように変ホ長調は英雄的な調性で、標題にふさわしい曲想を持っている。
第8番 ハ短調「荒野の狩」 / c moll "Wilde Jagd"。ハ短調。パガニーニ練習曲中の「狩」とは大きく異なり、こちらは猛獣狩りのように荒々しい。分散オクターヴと付点リズムによる第1主題とはじめppで提示される長調の第2主題が変奏と転調を繰り返しながら、最後はハ長調で終わる。
第9番 変イ長調「回想」 / As dur "Ricordanza"
変イ長調。第3番に続き詩的要素の強い穏やかな曲である。いくつかの主題はいずれも即興的で、何度も華麗なカデンツァをはさみながらドラマティックな盛り上がりを見せ、いかにもいろいろな人生のドラマを回想しているような美しい曲である。
第10番 ヘ短調(標題なし) / f moll。ヘ短調。はじめから題名のなかった曲で、何度も改訂を加えて練習曲として特殊なテクニックや書法の盛り込まれた作品となった。冒頭の左右交互の和音によるモチーフはagitatoのいらだちを表現し、その後も上行形とため息のような下降形とのモチーフがからみあい、最後まで不安定な印象を残す。
第11番 変ニ長調「夕べの調べ」 / Des dur "Harmonies du soir"。変ニ長調。最低音による鐘の音の模倣と美しい和音による序奏に続き、広い音域にわたるハープ風の伴奏にのせて魅力的なテーマが現われる。祈りのような「Piu lento con intimo sentimento」をはさみffでテーマは繰り返され分厚い和音によって盛り上がりをみせる。平和な夕べに鳴り響く美しい教会の鐘の「調べ」はリストの強い信仰心の表れだろう。
第12番 変ロ短調「雪かき」 / b moll "Chasse-neige"。変ロ短調。終始変わらない細かいトレモロは雪が降り積もる様だろう。それに乗せてたった6音からなる雪のうたが奏でられる。途中で現われる小さな半音階パッセージは突風だろうか。雪と風は次第に激しさを増し、最後は消え入るように終わってゆく。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
アメリカ合衆国出身のピアニスト。