リスト 超絶技巧練習曲S.139 第4番 ニ短調 マゼッパの動画集です。
この曲集の原型は1826年頃「すべての長短調の練習のための48の練習曲」として実際に作られた12曲がパリで出版されたものであり、その後1838年に「24の大練習曲」として(実際に書かれたのはやはり12曲)、計2度の改訂を経て最終的に1851年「超絶技巧練習曲集」として完成した。調性はハ長調から始まって平行短調を添えて五度圏を逆回りして変ロ短調で終わっている。ただし標題は初めから意図されたものではなく、出版する際にリスト自身か出版者によって付けられたものである。ヴィルトーゾとしてヨーロッパ中を風靡したリストの名技を後世に伝える傑作だといえよう。
第4番 ニ短調「マゼッパ」 / d moll "Mazeppa"。ニ短調。マゼッパとはフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの叙事詩「マゼッパ」に現われる英雄である。諸説あるようだがまずこの詩を読んだリストが感銘を受けまずピアノ曲に、そして1851年に交響詩として管弦楽のために書き直し、さらにピアノ曲に書き戻してこの練習曲集に加えられたと思われる。テーマはユーゴーの詩にある「馬に縛り付けられて荒野に放されたマゼッパ」の情景だろう。これはカデンツァを挟んで変奏を繰り返し、最後はニ長調に変わって雄大に終わるが、最後の和音の欄外にはリスト自身の筆跡で「ついに終わった……しかし彼は再起して国王となった」と書かれているのでその喜びの表れだろう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南米チリ出身でアメリカを中心に活動したピアニスト。20世紀を代表するピアノの巨匠として知られた。
1941年、カーネギー・ホールにデビューし、翌年より本拠をアメリカに移す。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍(日本には1965年初来日)。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。
この曲集の原型は1826年頃「すべての長短調の練習のための48の練習曲」として実際に作られた12曲がパリで出版されたものであり、その後1838年に「24の大練習曲」として(実際に書かれたのはやはり12曲)、計2度の改訂を経て最終的に1851年「超絶技巧練習曲集」として完成した。調性はハ長調から始まって平行短調を添えて五度圏を逆回りして変ロ短調で終わっている。ただし標題は初めから意図されたものではなく、出版する際にリスト自身か出版者によって付けられたものである。ヴィルトーゾとしてヨーロッパ中を風靡したリストの名技を後世に伝える傑作だといえよう。
第4番 ニ短調「マゼッパ」 / d moll "Mazeppa"。ニ短調。マゼッパとはフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの叙事詩「マゼッパ」に現われる英雄である。諸説あるようだがまずこの詩を読んだリストが感銘を受けまずピアノ曲に、そして1851年に交響詩として管弦楽のために書き直し、さらにピアノ曲に書き戻してこの練習曲集に加えられたと思われる。テーマはユーゴーの詩にある「馬に縛り付けられて荒野に放されたマゼッパ」の情景だろう。これはカデンツァを挟んで変奏を繰り返し、最後はニ長調に変わって雄大に終わるが、最後の和音の欄外にはリスト自身の筆跡で「ついに終わった……しかし彼は再起して国王となった」と書かれているのでその喜びの表れだろう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
アメリカ合衆国出身のピアニスト。
この曲集の原型は1826年頃「すべての長短調の練習のための48の練習曲」として実際に作られた12曲がパリで出版されたものであり、その後1838年に「24の大練習曲」として(実際に書かれたのはやはり12曲)、計2度の改訂を経て最終的に1851年「超絶技巧練習曲集」として完成した。調性はハ長調から始まって平行短調を添えて五度圏を逆回りして変ロ短調で終わっている。ただし標題は初めから意図されたものではなく、出版する際にリスト自身か出版者によって付けられたものである。ヴィルトーゾとしてヨーロッパ中を風靡したリストの名技を後世に伝える傑作だといえよう。
第4番 ニ短調「マゼッパ」 / d moll "Mazeppa"。ニ短調。マゼッパとはフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの叙事詩「マゼッパ」に現われる英雄である。諸説あるようだがまずこの詩を読んだリストが感銘を受けまずピアノ曲に、そして1851年に交響詩として管弦楽のために書き直し、さらにピアノ曲に書き戻してこの練習曲集に加えられたと思われる。テーマはユーゴーの詩にある「馬に縛り付けられて荒野に放されたマゼッパ」の情景だろう。これはカデンツァを挟んで変奏を繰り返し、最後はニ長調に変わって雄大に終わるが、最後の和音の欄外にはリスト自身の筆跡で「ついに終わった……しかし彼は再起して国王となった」と書かれているのでその喜びの表れだろう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
モスクワ出身のロシアのピアニスト。1990年チャイコフスキーコンクールで第1位に輝き、演奏のキャリアが始まった。
CZIFFRA - LISZT Transcendental Etude No. 4 in D minor "Mazeppa"
この曲集の原型は1826年頃「すべての長短調の練習のための48の練習曲」として実際に作られた12曲がパリで出版されたものであり、その後1838年に「24の大練習曲」として(実際に書かれたのはやはり12曲)、計2度の改訂を経て最終的に1851年「超絶技巧練習曲集」として完成した。調性はハ長調から始まって平行短調を添えて五度圏を逆回りして変ロ短調で終わっている。ただし標題は初めから意図されたものではなく、出版する際にリスト自身か出版者によって付けられたものである。ヴィルトーゾとしてヨーロッパ中を風靡したリストの名技を後世に伝える傑作だといえよう。
第4番 ニ短調「マゼッパ」 / d moll "Mazeppa"。ニ短調。マゼッパとはフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの叙事詩「マゼッパ」に現われる英雄である。諸説あるようだがまずこの詩を読んだリストが感銘を受けまずピアノ曲に、そして1851年に交響詩として管弦楽のために書き直し、さらにピアノ曲に書き戻してこの練習曲集に加えられたと思われる。テーマはユーゴーの詩にある「馬に縛り付けられて荒野に放されたマゼッパ」の情景だろう。これはカデンツァを挟んで変奏を繰り返し、最後はニ長調に変わって雄大に終わるが、最後の和音の欄外にはリスト自身の筆跡で「ついに終わった……しかし彼は再起して国王となった」と書かれているのでその喜びの表れだろう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー出身のピアニスト。超絶技巧で名高い。Gyorgy Cziffra とも明記する。ブダペストにてロマの家系に生まれる。5歳のときに、居酒屋やサーカスで民謡を主題とする即興演奏を行なって有名になる。ブダペストのフランツ・リスト音楽院に入学し、エルネー・ドホナーニらに師事。実際のところ生演奏では、シフラの豪快な演奏に酔いしれた聴衆が、演奏の途中でやんやの大喝采を送ることも稀ではなかった。いずれにせよシフラが不世出のヴィルトゥオーソであり、即興演奏の達人であった事実はほとんど疑いようがない。
リスト 超絶技巧練習曲 第4曲 マゼッパ 横山幸雄LISZT:Etudes D'execution Transcendante No.4 Mazeppa Yukio Yokoyama played in 1998. 演奏と共に楽譜が見られます。
この曲集の原型は1826年頃「すべての長短調の練習のための48の練習曲」として実際に作られた12曲がパリで出版されたものであり、その後1838年に「24の大練習曲」として(実際に書かれたのはやはり12曲)、計2度の改訂を経て最終的に1851年「超絶技巧練習曲集」として完成した。調性はハ長調から始まって平行短調を添えて五度圏を逆回りして変ロ短調で終わっている。ただし標題は初めから意図されたものではなく、出版する際にリスト自身か出版者によって付けられたものである。ヴィルトーゾとしてヨーロッパ中を風靡したリストの名技を後世に伝える傑作だといえよう。
第4番 ニ短調「マゼッパ」 / d moll "Mazeppa"。ニ短調。マゼッパとはフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの叙事詩「マゼッパ」に現われる英雄である。諸説あるようだがまずこの詩を読んだリストが感銘を受けまずピアノ曲に、そして1851年に交響詩として管弦楽のために書き直し、さらにピアノ曲に書き戻してこの練習曲集に加えられたと思われる。テーマはユーゴーの詩にある「馬に縛り付けられて荒野に放されたマゼッパ」の情景だろう。これはカデンツァを挟んで変奏を繰り返し、最後はニ長調に変わって雄大に終わるが、最後の和音の欄外にはリスト自身の筆跡で「ついに終わった……しかし彼は再起して国王となった」と書かれているのでその喜びの表れだろう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本を代表するピアニスト
上野学園大学教授、エリザベト音楽大学客員教授
この曲集の原型は1826年頃「すべての長短調の練習のための48の練習曲」として実際に作られた12曲がパリで出版されたものであり、その後1838年に「24の大練習曲」として(実際に書かれたのはやはり12曲)、計2度の改訂を経て最終的に1851年「超絶技巧練習曲集」として完成した。調性はハ長調から始まって平行短調を添えて五度圏を逆回りして変ロ短調で終わっている。ただし標題は初めから意図されたものではなく、出版する際にリスト自身か出版者によって付けられたものである。ヴィルトーゾとしてヨーロッパ中を風靡したリストの名技を後世に伝える傑作だといえよう。
第4番 ニ短調「マゼッパ」 / d moll "Mazeppa"。ニ短調。マゼッパとはフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの叙事詩「マゼッパ」に現われる英雄である。諸説あるようだがまずこの詩を読んだリストが感銘を受けまずピアノ曲に、そして1851年に交響詩として管弦楽のために書き直し、さらにピアノ曲に書き戻してこの練習曲集に加えられたと思われる。テーマはユーゴーの詩にある「馬に縛り付けられて荒野に放されたマゼッパ」の情景だろう。これはカデンツァを挟んで変奏を繰り返し、最後はニ長調に変わって雄大に終わるが、最後の和音の欄外にはリスト自身の筆跡で「ついに終わった……しかし彼は再起して国王となった」と書かれているのでその喜びの表れだろう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
モスクワ出身のロシアのピアニスト。1990年チャイコフスキーコンクールで第1位に輝き、演奏のキャリアが始まった。
Claudio Arrau Liszt Transcendental Etudes No. 4 Mazeppa In D minor
この曲集の原型は1826年頃「すべての長短調の練習のための48の練習曲」として実際に作られた12曲がパリで出版されたものであり、その後1838年に「24の大練習曲」として(実際に書かれたのはやはり12曲)、計2度の改訂を経て最終的に1851年「超絶技巧練習曲集」として完成した。調性はハ長調から始まって平行短調を添えて五度圏を逆回りして変ロ短調で終わっている。ただし標題は初めから意図されたものではなく、出版する際にリスト自身か出版者によって付けられたものである。ヴィルトーゾとしてヨーロッパ中を風靡したリストの名技を後世に伝える傑作だといえよう。
第4番 ニ短調「マゼッパ」 / d moll "Mazeppa"。ニ短調。マゼッパとはフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの叙事詩「マゼッパ」に現われる英雄である。諸説あるようだがまずこの詩を読んだリストが感銘を受けまずピアノ曲に、そして1851年に交響詩として管弦楽のために書き直し、さらにピアノ曲に書き戻してこの練習曲集に加えられたと思われる。テーマはユーゴーの詩にある「馬に縛り付けられて荒野に放されたマゼッパ」の情景だろう。これはカデンツァを挟んで変奏を繰り返し、最後はニ長調に変わって雄大に終わるが、最後の和音の欄外にはリスト自身の筆跡で「ついに終わった……しかし彼は再起して国王となった」と書かれているのでその喜びの表れだろう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南米チリ出身でアメリカを中心に活動したピアニスト。20世紀を代表するピアノの巨匠として知られた。
1941年、カーネギー・ホールにデビューし、翌年より本拠をアメリカに移す。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍(日本には1965年初来日)。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。
LAZAR BERMAN - LISZT Transcendental Etude No 04. Mazeppa
この曲集の原型は1826年頃「すべての長短調の練習のための48の練習曲」として実際に作られた12曲がパリで出版されたものであり、その後1838年に「24の大練習曲」として(実際に書かれたのはやはり12曲)、計2度の改訂を経て最終的に1851年「超絶技巧練習曲集」として完成した。調性はハ長調から始まって平行短調を添えて五度圏を逆回りして変ロ短調で終わっている。ただし標題は初めから意図されたものではなく、出版する際にリスト自身か出版者によって付けられたものである。ヴィルトーゾとしてヨーロッパ中を風靡したリストの名技を後世に伝える傑作だといえよう。
第4番 ニ短調「マゼッパ」 / d moll "Mazeppa"。ニ短調。マゼッパとはフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの叙事詩「マゼッパ」に現われる英雄である。諸説あるようだがまずこの詩を読んだリストが感銘を受けまずピアノ曲に、そして1851年に交響詩として管弦楽のために書き直し、さらにピアノ曲に書き戻してこの練習曲集に加えられたと思われる。テーマはユーゴーの詩にある「馬に縛り付けられて荒野に放されたマゼッパ」の情景だろう。これはカデンツァを挟んで変奏を繰り返し、最後はニ長調に変わって雄大に終わるが、最後の和音の欄外にはリスト自身の筆跡で「ついに終わった……しかし彼は再起して国王となった」と書かれているのでその喜びの表れだろう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
旧ソ連出身のロシア人ピアニスト。日本では慣習的に「ラザール」とフランス語風に表記されているが、ロシア語の発音では第一音節に強勢が置かれるため「ラーザリ」が近い。
「私は19世紀の人間であり、ヴィルトゥオーソと呼ばれるタイプの演奏家に属している」と自認していたように、鮮やかな超絶技巧と芝居っ気たっぷりの演奏、濃やかな情緒表現と強靭なタッチが特徴的で、一夜で3つのピアノ協奏曲とソナタ1曲を弾き切ったこともある。