ドビュッシー 小組曲 第3曲 メヌエットの動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
1888年~89年、4手ピアノのために作曲された。ドビュッシーの作曲初期の作品にあたる。声楽曲のジャンルにおいては、早い段階から個性をみせていたドビュッシーであったが、同時期のピアノ作品においては、まだ伝統的な枠からぬけだせてはいるとはいえない。しかしながら、この《小組曲》では、のちの革新への第一歩を感じさせるような要素が随所にみられる。魅力的な旋律やリズムをもち、難易度としても取り組みやすいものとなっているため、ドビュッシーの連弾曲の中でも特に広く親しまれている。
《小組曲》は、18世紀、ロココの画家ワトーが、好んで描いた貴族の優雅な宴「艶なる宴」と深い関係をもっている。よって、この曲の演奏に際しては、そのような優雅で繊細、軽妙洒脱な雰囲気を大切にしたい。
4曲からなり、いずれも複合3部形式で、対照的な性格の中間部をもつ。また《小組曲》は、管弦楽用や、ピアノ独奏のための編曲、ほかにもさまざまな楽器のための編曲がある。
第3曲:メヌエット。この曲には、ドビュッシーがバンヴィル(フランスの著名な詩人)の詩を用いて作曲した歌曲《艶なる宴(1882)》の旋律がとりこまれている。ゆっくりとしたテンポの、優雅な舞曲。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスの作曲家。
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日、父マニュエルと母ヴィクトリーヌの長男として、パリ西郊約20キロの町サン=ジェルマン=アン=レに生まれた。
ドビュッシーは、ワーグナーを乗り越えるためにフランス固有の美を武器とし、大胆な語法によって20世紀音楽への扉をあけた作曲家である。長調・短調の明確な対比を嫌った彼は、教会旋法、東洋風の5音音階、全音音階などを駆使し、印象派の画家たちが遠近法を回避するために画面を分割したように、平面的、スタティックな美を生み出した。
ドビュッシーのピアニズムには、大きくわけて次の3つの源流がある。モーテ夫人を通じて伝えられたショパンの技法(ビロードのようなタッチと美しい響き、軽やかなリズムなど)、やはりモーテ夫人に目を開かれたバッハの書法(対位法的、優雅なアラベスクなど)、18世紀クラヴサン音楽の技法(多彩な装飾音、「バトリ」など)。
ドビュッシー独自の語法としては、ペダルで白鍵と黒鍵の響きを混ぜたり、重音や和音塊を平行移動させたり、いくつもの層を積み重ねて、独特の「音響宇宙」を生み出したこと、ポリリズムやルバートを多用して自在な律動を作り出したことなどがあげられる。
1907年にドビュッシーは、「私はますます音楽というのは色彩と律動づけられた時間でできていると確信するようになった」と書いているが、調性からもリズムからも自由になりながら有機性を失わなかったドビュッシーの在り方を象徴するような言葉である。
『前奏曲集第1巻』が『管弦楽のための映像』の「イベリア」と同時進行していたように、ドビュッシーのピアノ曲はオーケストラ曲やオペラ、声楽曲と密接なかかわりももつものが多い。従って、単にピアノ曲としての解釈にとどまるのではなく、背景となっているテキストや管弦楽の色彩感をとりいれなければ、片手落ちになるだろう。
ドビュッシーの「音響宇宙」にはペダルの使用が不可欠だが、彼の発想はしばしば管弦楽的で、幾重もの音響レベルを明確に弾きわけるタッチとペダリングが求められる。
東洋美術に深い関心をもち、また作品にもとりいれたドビュッシーは、作曲にあたってのモットーを「ものごとの半分まで言って想像力に接ぎ木させる」と表現している。すべてをさらけ出さず、深く静かに潜行させるその姿勢は、東洋人、とりわけ日本人の美意識にもっとも近い作曲家ということができよう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス近代の印象派を代表する作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。ドビュッシーの音楽は、その特徴的な和音構成などで、音の印象を表現するという独特の表現スタイルを確立し、「印象主義音楽(印象派)」と称されている。
日本のピアニスト。武蔵野音楽大学音楽学部ピアノ専攻卒業。2002年第3回フランス音楽コンクール(全日本演奏家協会主催)、2005年第3回全日本ピアノデュオコンクール(同協会)にてそれぞれ入賞。ソロ、ピアノデュオ活動だけでなく、伴奏・室内楽も活発に行っている。演奏活動の他、勉強会・講習会・コンサートプロデューサーとしても活動し、いくつものプロデュースを成功させている。(社)全日本ピアノ指導者協会正会員。全日本演奏家協会正会員。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
1888年~89年、4手ピアノのために作曲された。ドビュッシーの作曲初期の作品にあたる。声楽曲のジャンルにおいては、早い段階から個性をみせていたドビュッシーであったが、同時期のピアノ作品においては、まだ伝統的な枠からぬけだせてはいるとはいえない。しかしながら、この《小組曲》では、のちの革新への第一歩を感じさせるような要素が随所にみられる。魅力的な旋律やリズムをもち、難易度としても取り組みやすいものとなっているため、ドビュッシーの連弾曲の中でも特に広く親しまれている。
《小組曲》は、18世紀、ロココの画家ワトーが、好んで描いた貴族の優雅な宴「艶なる宴」と深い関係をもっている。よって、この曲の演奏に際しては、そのような優雅で繊細、軽妙洒脱な雰囲気を大切にしたい。
4曲からなり、いずれも複合3部形式で、対照的な性格の中間部をもつ。また《小組曲》は、管弦楽用や、ピアノ独奏のための編曲、ほかにもさまざまな楽器のための編曲がある。
第3曲:メヌエット。この曲には、ドビュッシーがバンヴィル(フランスの著名な詩人)の詩を用いて作曲した歌曲《艶なる宴(1882)》の旋律がとりこまれている。ゆっくりとしたテンポの、優雅な舞曲。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスの作曲家。
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日、父マニュエルと母ヴィクトリーヌの長男として、パリ西郊約20キロの町サン=ジェルマン=アン=レに生まれた。
ドビュッシーは、ワーグナーを乗り越えるためにフランス固有の美を武器とし、大胆な語法によって20世紀音楽への扉をあけた作曲家である。長調・短調の明確な対比を嫌った彼は、教会旋法、東洋風の5音音階、全音音階などを駆使し、印象派の画家たちが遠近法を回避するために画面を分割したように、平面的、スタティックな美を生み出した。
ドビュッシーのピアニズムには、大きくわけて次の3つの源流がある。モーテ夫人を通じて伝えられたショパンの技法(ビロードのようなタッチと美しい響き、軽やかなリズムなど)、やはりモーテ夫人に目を開かれたバッハの書法(対位法的、優雅なアラベスクなど)、18世紀クラヴサン音楽の技法(多彩な装飾音、「バトリ」など)。
ドビュッシー独自の語法としては、ペダルで白鍵と黒鍵の響きを混ぜたり、重音や和音塊を平行移動させたり、いくつもの層を積み重ねて、独特の「音響宇宙」を生み出したこと、ポリリズムやルバートを多用して自在な律動を作り出したことなどがあげられる。
1907年にドビュッシーは、「私はますます音楽というのは色彩と律動づけられた時間でできていると確信するようになった」と書いているが、調性からもリズムからも自由になりながら有機性を失わなかったドビュッシーの在り方を象徴するような言葉である。
『前奏曲集第1巻』が『管弦楽のための映像』の「イベリア」と同時進行していたように、ドビュッシーのピアノ曲はオーケストラ曲やオペラ、声楽曲と密接なかかわりももつものが多い。従って、単にピアノ曲としての解釈にとどまるのではなく、背景となっているテキストや管弦楽の色彩感をとりいれなければ、片手落ちになるだろう。
ドビュッシーの「音響宇宙」にはペダルの使用が不可欠だが、彼の発想はしばしば管弦楽的で、幾重もの音響レベルを明確に弾きわけるタッチとペダリングが求められる。
東洋美術に深い関心をもち、また作品にもとりいれたドビュッシーは、作曲にあたってのモットーを「ものごとの半分まで言って想像力に接ぎ木させる」と表現している。すべてをさらけ出さず、深く静かに潜行させるその姿勢は、東洋人、とりわけ日本人の美意識にもっとも近い作曲家ということができよう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス近代の印象派を代表する作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。ドビュッシーの音楽は、その特徴的な和音構成などで、音の印象を表現するという独特の表現スタイルを確立し、「印象主義音楽(印象派)」と称されている。
兄のアロイス(1931年5月14日 - )と弟のアルフォンス(1932年10月9日 - 2010年5月5日による、ドイツのピアノ・デュオ。古典から現代曲まで、幅広いレパートリーを持っている。
1888年~89年、4手ピアノのために作曲された。ドビュッシーの作曲初期の作品にあたる。声楽曲のジャンルにおいては、早い段階から個性をみせていたドビュッシーであったが、同時期のピアノ作品においては、まだ伝統的な枠からぬけだせてはいるとはいえない。しかしながら、この《小組曲》では、のちの革新への第一歩を感じさせるような要素が随所にみられる。魅力的な旋律やリズムをもち、難易度としても取り組みやすいものとなっているため、ドビュッシーの連弾曲の中でも特に広く親しまれている。
《小組曲》は、18世紀、ロココの画家ワトーが、好んで描いた貴族の優雅な宴「艶なる宴」と深い関係をもっている。よって、この曲の演奏に際しては、そのような優雅で繊細、軽妙洒脱な雰囲気を大切にしたい。
4曲からなり、いずれも複合3部形式で、対照的な性格の中間部をもつ。また《小組曲》は、管弦楽用や、ピアノ独奏のための編曲、ほかにもさまざまな楽器のための編曲がある。
第3曲:メヌエット。この曲には、ドビュッシーがバンヴィル(フランスの著名な詩人)の詩を用いて作曲した歌曲《艶なる宴(1882)》の旋律がとりこまれている。ゆっくりとしたテンポの、優雅な舞曲。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスの作曲家。
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日、父マニュエルと母ヴィクトリーヌの長男として、パリ西郊約20キロの町サン=ジェルマン=アン=レに生まれた。
ドビュッシーは、ワーグナーを乗り越えるためにフランス固有の美を武器とし、大胆な語法によって20世紀音楽への扉をあけた作曲家である。長調・短調の明確な対比を嫌った彼は、教会旋法、東洋風の5音音階、全音音階などを駆使し、印象派の画家たちが遠近法を回避するために画面を分割したように、平面的、スタティックな美を生み出した。
ドビュッシーのピアニズムには、大きくわけて次の3つの源流がある。モーテ夫人を通じて伝えられたショパンの技法(ビロードのようなタッチと美しい響き、軽やかなリズムなど)、やはりモーテ夫人に目を開かれたバッハの書法(対位法的、優雅なアラベスクなど)、18世紀クラヴサン音楽の技法(多彩な装飾音、「バトリ」など)。
ドビュッシー独自の語法としては、ペダルで白鍵と黒鍵の響きを混ぜたり、重音や和音塊を平行移動させたり、いくつもの層を積み重ねて、独特の「音響宇宙」を生み出したこと、ポリリズムやルバートを多用して自在な律動を作り出したことなどがあげられる。
1907年にドビュッシーは、「私はますます音楽というのは色彩と律動づけられた時間でできていると確信するようになった」と書いているが、調性からもリズムからも自由になりながら有機性を失わなかったドビュッシーの在り方を象徴するような言葉である。
『前奏曲集第1巻』が『管弦楽のための映像』の「イベリア」と同時進行していたように、ドビュッシーのピアノ曲はオーケストラ曲やオペラ、声楽曲と密接なかかわりももつものが多い。従って、単にピアノ曲としての解釈にとどまるのではなく、背景となっているテキストや管弦楽の色彩感をとりいれなければ、片手落ちになるだろう。
ドビュッシーの「音響宇宙」にはペダルの使用が不可欠だが、彼の発想はしばしば管弦楽的で、幾重もの音響レベルを明確に弾きわけるタッチとペダリングが求められる。
東洋美術に深い関心をもち、また作品にもとりいれたドビュッシーは、作曲にあたってのモットーを「ものごとの半分まで言って想像力に接ぎ木させる」と表現している。すべてをさらけ出さず、深く静かに潜行させるその姿勢は、東洋人、とりわけ日本人の美意識にもっとも近い作曲家ということができよう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス近代の印象派を代表する作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。ドビュッシーの音楽は、その特徴的な和音構成などで、音の印象を表現するという独特の表現スタイルを確立し、「印象主義音楽(印象派)」と称されている。
ベルギーのピアノ・デュオ。ベルギー人のパトリック・クロムランク (Patrick Crommelynck) と日本人の桑田妙子 (Teako Kuwata) の夫婦によるデュオ
1888年~89年、4手ピアノのために作曲された。ドビュッシーの作曲初期の作品にあたる。声楽曲のジャンルにおいては、早い段階から個性をみせていたドビュッシーであったが、同時期のピアノ作品においては、まだ伝統的な枠からぬけだせてはいるとはいえない。しかしながら、この《小組曲》では、のちの革新への第一歩を感じさせるような要素が随所にみられる。魅力的な旋律やリズムをもち、難易度としても取り組みやすいものとなっているため、ドビュッシーの連弾曲の中でも特に広く親しまれている。
《小組曲》は、18世紀、ロココの画家ワトーが、好んで描いた貴族の優雅な宴「艶なる宴」と深い関係をもっている。よって、この曲の演奏に際しては、そのような優雅で繊細、軽妙洒脱な雰囲気を大切にしたい。
4曲からなり、いずれも複合3部形式で、対照的な性格の中間部をもつ。また《小組曲》は、管弦楽用や、ピアノ独奏のための編曲、ほかにもさまざまな楽器のための編曲がある。
第3曲:メヌエット。この曲には、ドビュッシーがバンヴィル(フランスの著名な詩人)の詩を用いて作曲した歌曲《艶なる宴(1882)》の旋律がとりこまれている。ゆっくりとしたテンポの、優雅な舞曲。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスの作曲家。
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日、父マニュエルと母ヴィクトリーヌの長男として、パリ西郊約20キロの町サン=ジェルマン=アン=レに生まれた。
ドビュッシーは、ワーグナーを乗り越えるためにフランス固有の美を武器とし、大胆な語法によって20世紀音楽への扉をあけた作曲家である。長調・短調の明確な対比を嫌った彼は、教会旋法、東洋風の5音音階、全音音階などを駆使し、印象派の画家たちが遠近法を回避するために画面を分割したように、平面的、スタティックな美を生み出した。
ドビュッシーのピアニズムには、大きくわけて次の3つの源流がある。モーテ夫人を通じて伝えられたショパンの技法(ビロードのようなタッチと美しい響き、軽やかなリズムなど)、やはりモーテ夫人に目を開かれたバッハの書法(対位法的、優雅なアラベスクなど)、18世紀クラヴサン音楽の技法(多彩な装飾音、「バトリ」など)。
ドビュッシー独自の語法としては、ペダルで白鍵と黒鍵の響きを混ぜたり、重音や和音塊を平行移動させたり、いくつもの層を積み重ねて、独特の「音響宇宙」を生み出したこと、ポリリズムやルバートを多用して自在な律動を作り出したことなどがあげられる。
1907年にドビュッシーは、「私はますます音楽というのは色彩と律動づけられた時間でできていると確信するようになった」と書いているが、調性からもリズムからも自由になりながら有機性を失わなかったドビュッシーの在り方を象徴するような言葉である。
『前奏曲集第1巻』が『管弦楽のための映像』の「イベリア」と同時進行していたように、ドビュッシーのピアノ曲はオーケストラ曲やオペラ、声楽曲と密接なかかわりももつものが多い。従って、単にピアノ曲としての解釈にとどまるのではなく、背景となっているテキストや管弦楽の色彩感をとりいれなければ、片手落ちになるだろう。
ドビュッシーの「音響宇宙」にはペダルの使用が不可欠だが、彼の発想はしばしば管弦楽的で、幾重もの音響レベルを明確に弾きわけるタッチとペダリングが求められる。
東洋美術に深い関心をもち、また作品にもとりいれたドビュッシーは、作曲にあたってのモットーを「ものごとの半分まで言って想像力に接ぎ木させる」と表現している。すべてをさらけ出さず、深く静かに潜行させるその姿勢は、東洋人、とりわけ日本人の美意識にもっとも近い作曲家ということができよう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス近代の印象派を代表する作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。ドビュッシーの音楽は、その特徴的な和音構成などで、音の印象を表現するという独特の表現スタイルを確立し、「印象主義音楽(印象派)」と称されている。
アルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。1955年、アルゲリッチの演奏を聴いたフアン・ペロン大統領は、彼女に優れた音楽教育を受けさせるため、外交官であった彼女の父親にウィーン赴任を命じたほどの才能を示していた。家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。1969年、シャルル・デュトワと結婚し(2度目)、娘をもうけるが、来日の際に夫婦喧嘩となり、アルゲリッチだけが帰国し離婚した逸話もある。後にピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。
ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり室内楽に活動の幅を広げる。ヴァイオリニストのクレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。
1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。1998年から別府アルゲリッチ音楽祭、1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール、2001年からブエノスアイレス-マルタ・アルゲリッチ音楽祭、2002年からルガーノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。
【ピアノデュオ版】
1888年~89年、4手ピアノのために作曲された。ドビュッシーの作曲初期の作品にあたる。声楽曲のジャンルにおいては、早い段階から個性をみせていたドビュッシーであったが、同時期のピアノ作品においては、まだ伝統的な枠からぬけだせてはいるとはいえない。しかしながら、この《小組曲》では、のちの革新への第一歩を感じさせるような要素が随所にみられる。魅力的な旋律やリズムをもち、難易度としても取り組みやすいものとなっているため、ドビュッシーの連弾曲の中でも特に広く親しまれている。
《小組曲》は、18世紀、ロココの画家ワトーが、好んで描いた貴族の優雅な宴「艶なる宴」と深い関係をもっている。よって、この曲の演奏に際しては、そのような優雅で繊細、軽妙洒脱な雰囲気を大切にしたい。
4曲からなり、いずれも複合3部形式で、対照的な性格の中間部をもつ。また《小組曲》は、管弦楽用や、ピアノ独奏のための編曲、ほかにもさまざまな楽器のための編曲がある。
第3曲:メヌエット。この曲には、ドビュッシーがバンヴィル(フランスの著名な詩人)の詩を用いて作曲した歌曲《艶なる宴(1882)》の旋律がとりこまれている。ゆっくりとしたテンポの、優雅な舞曲。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスの作曲家。
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日、父マニュエルと母ヴィクトリーヌの長男として、パリ西郊約20キロの町サン=ジェルマン=アン=レに生まれた。
ドビュッシーは、ワーグナーを乗り越えるためにフランス固有の美を武器とし、大胆な語法によって20世紀音楽への扉をあけた作曲家である。長調・短調の明確な対比を嫌った彼は、教会旋法、東洋風の5音音階、全音音階などを駆使し、印象派の画家たちが遠近法を回避するために画面を分割したように、平面的、スタティックな美を生み出した。
ドビュッシーのピアニズムには、大きくわけて次の3つの源流がある。モーテ夫人を通じて伝えられたショパンの技法(ビロードのようなタッチと美しい響き、軽やかなリズムなど)、やはりモーテ夫人に目を開かれたバッハの書法(対位法的、優雅なアラベスクなど)、18世紀クラヴサン音楽の技法(多彩な装飾音、「バトリ」など)。
ドビュッシー独自の語法としては、ペダルで白鍵と黒鍵の響きを混ぜたり、重音や和音塊を平行移動させたり、いくつもの層を積み重ねて、独特の「音響宇宙」を生み出したこと、ポリリズムやルバートを多用して自在な律動を作り出したことなどがあげられる。
1907年にドビュッシーは、「私はますます音楽というのは色彩と律動づけられた時間でできていると確信するようになった」と書いているが、調性からもリズムからも自由になりながら有機性を失わなかったドビュッシーの在り方を象徴するような言葉である。
『前奏曲集第1巻』が『管弦楽のための映像』の「イベリア」と同時進行していたように、ドビュッシーのピアノ曲はオーケストラ曲やオペラ、声楽曲と密接なかかわりももつものが多い。従って、単にピアノ曲としての解釈にとどまるのではなく、背景となっているテキストや管弦楽の色彩感をとりいれなければ、片手落ちになるだろう。
ドビュッシーの「音響宇宙」にはペダルの使用が不可欠だが、彼の発想はしばしば管弦楽的で、幾重もの音響レベルを明確に弾きわけるタッチとペダリングが求められる。
東洋美術に深い関心をもち、また作品にもとりいれたドビュッシーは、作曲にあたってのモットーを「ものごとの半分まで言って想像力に接ぎ木させる」と表現している。すべてをさらけ出さず、深く静かに潜行させるその姿勢は、東洋人、とりわけ日本人の美意識にもっとも近い作曲家ということができよう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス近代の印象派を代表する作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。ドビュッシーの音楽は、その特徴的な和音構成などで、音の印象を表現するという独特の表現スタイルを確立し、「印象主義音楽(印象派)」と称されている。
中国生まれでアメリカで活躍したピアニスト