ドビュッシー 6つの古代墓碑銘 全曲の動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
四手のためのピアノ連弾曲。《6つの古代のエピグラフ》のもとになるスケッチは、ドビュッシーの友人ピエール・ルイス(1870~1925)の詩集『ビリティスの歌』の朗読を伴奏するための付随音楽として1990年に書かれたものである。それは、フルートとチェレスタとハープのためのものであったが、これは演奏されず、1914年、第一次世界大戦中、祖国フランスに貢献するために、ピアノ連弾曲として完成した。またこの曲は後に、指揮者アンセルメにより管弦楽に編曲されている。この曲には、ドビュッシーのギリシアへの深い憧憬がこめられている。彼の円熟した技法によって、6つの標題それぞれが示す、詩の世界が音画風に描き出されている。
1.夏の風の神、パンに祈るために / "Pour invoquer Pan, dieu du vent d'ete"。
2.無名の墓のために / "Pour un tombeau sans nom"。
3.夜が幸いであるために / "Pour que la nuit soit propice"。
4.カスタネットを持つ舞姫のために / "Pour la danseuse aux crotales"。
5.エジプト女のために / "Pour l'Egyptienne"。
6.朝の雨に感謝するために / "Pour remercier la pluie au matin"。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスの作曲家。
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日、父マニュエルと母ヴィクトリーヌの長男として、パリ西郊約20キロの町サン=ジェルマン=アン=レに生まれた。
ドビュッシーは、ワーグナーを乗り越えるためにフランス固有の美を武器とし、大胆な語法によって20世紀音楽への扉をあけた作曲家である。長調・短調の明確な対比を嫌った彼は、教会旋法、東洋風の5音音階、全音音階などを駆使し、印象派の画家たちが遠近法を回避するために画面を分割したように、平面的、スタティックな美を生み出した。
ドビュッシーのピアニズムには、大きくわけて次の3つの源流がある。モーテ夫人を通じて伝えられたショパンの技法(ビロードのようなタッチと美しい響き、軽やかなリズムなど)、やはりモーテ夫人に目を開かれたバッハの書法(対位法的、優雅なアラベスクなど)、18世紀クラヴサン音楽の技法(多彩な装飾音、「バトリ」など)。
ドビュッシー独自の語法としては、ペダルで白鍵と黒鍵の響きを混ぜたり、重音や和音塊を平行移動させたり、いくつもの層を積み重ねて、独特の「音響宇宙」を生み出したこと、ポリリズムやルバートを多用して自在な律動を作り出したことなどがあげられる。
1907年にドビュッシーは、「私はますます音楽というのは色彩と律動づけられた時間でできていると確信するようになった」と書いているが、調性からもリズムからも自由になりながら有機性を失わなかったドビュッシーの在り方を象徴するような言葉である。
『前奏曲集第1巻』が『管弦楽のための映像』の「イベリア」と同時進行していたように、ドビュッシーのピアノ曲はオーケストラ曲やオペラ、声楽曲と密接なかかわりももつものが多い。従って、単にピアノ曲としての解釈にとどまるのではなく、背景となっているテキストや管弦楽の色彩感をとりいれなければ、片手落ちになるだろう。
ドビュッシーの「音響宇宙」にはペダルの使用が不可欠だが、彼の発想はしばしば管弦楽的で、幾重もの音響レベルを明確に弾きわけるタッチとペダリングが求められる。
東洋美術に深い関心をもち、また作品にもとりいれたドビュッシーは、作曲にあたってのモットーを「ものごとの半分まで言って想像力に接ぎ木させる」と表現している。すべてをさらけ出さず、深く静かに潜行させるその姿勢は、東洋人、とりわけ日本人の美意識にもっとも近い作曲家ということができよう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス近代の印象派を代表する作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。ドビュッシーの音楽は、その特徴的な和音構成などで、音の印象を表現するという独特の表現スタイルを確立し、「印象主義音楽(印象派)」と称されている。
日本のピアノデュオ。東桂子と赤松林太郎によるピアノ連弾デュオ。2001年より一台四手にこだわり、パリ にて活動を開始する。2003年パリ・エコール・ノルマル音楽院の室内楽高等演奏家課程ディプロマを首席取得(審査員全員満点による)。2004年にはパリ国際ピアノ大賞本選会一台四手部門において最高位を受賞する。サル・コルトーをはじめ、国内でもリサイタルを行ったが、2005年活動休止。2011年7月のリサイタルで再結成。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
四手のためのピアノ連弾曲。《6つの古代のエピグラフ》のもとになるスケッチは、ドビュッシーの友人ピエール・ルイス(1870~1925)の詩集『ビリティスの歌』の朗読を伴奏するための付随音楽として1990年に書かれたものである。それは、フルートとチェレスタとハープのためのものであったが、これは演奏されず、1914年、第一次世界大戦中、祖国フランスに貢献するために、ピアノ連弾曲として完成した。またこの曲は後に、指揮者アンセルメにより管弦楽に編曲されている。この曲には、ドビュッシーのギリシアへの深い憧憬がこめられている。彼の円熟した技法によって、6つの標題それぞれが示す、詩の世界が音画風に描き出されている。
1.夏の風の神、パンに祈るために / "Pour invoquer Pan, dieu du vent d'ete"。
2.無名の墓のために / "Pour un tombeau sans nom"。
3.夜が幸いであるために / "Pour que la nuit soit propice"。
4.カスタネットを持つ舞姫のために / "Pour la danseuse aux crotales"。
5.エジプト女のために / "Pour l'Egyptienne"。
6.朝の雨に感謝するために / "Pour remercier la pluie au matin"。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスの作曲家。
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日、父マニュエルと母ヴィクトリーヌの長男として、パリ西郊約20キロの町サン=ジェルマン=アン=レに生まれた。
ドビュッシーは、ワーグナーを乗り越えるためにフランス固有の美を武器とし、大胆な語法によって20世紀音楽への扉をあけた作曲家である。長調・短調の明確な対比を嫌った彼は、教会旋法、東洋風の5音音階、全音音階などを駆使し、印象派の画家たちが遠近法を回避するために画面を分割したように、平面的、スタティックな美を生み出した。
ドビュッシーのピアニズムには、大きくわけて次の3つの源流がある。モーテ夫人を通じて伝えられたショパンの技法(ビロードのようなタッチと美しい響き、軽やかなリズムなど)、やはりモーテ夫人に目を開かれたバッハの書法(対位法的、優雅なアラベスクなど)、18世紀クラヴサン音楽の技法(多彩な装飾音、「バトリ」など)。
ドビュッシー独自の語法としては、ペダルで白鍵と黒鍵の響きを混ぜたり、重音や和音塊を平行移動させたり、いくつもの層を積み重ねて、独特の「音響宇宙」を生み出したこと、ポリリズムやルバートを多用して自在な律動を作り出したことなどがあげられる。
1907年にドビュッシーは、「私はますます音楽というのは色彩と律動づけられた時間でできていると確信するようになった」と書いているが、調性からもリズムからも自由になりながら有機性を失わなかったドビュッシーの在り方を象徴するような言葉である。
『前奏曲集第1巻』が『管弦楽のための映像』の「イベリア」と同時進行していたように、ドビュッシーのピアノ曲はオーケストラ曲やオペラ、声楽曲と密接なかかわりももつものが多い。従って、単にピアノ曲としての解釈にとどまるのではなく、背景となっているテキストや管弦楽の色彩感をとりいれなければ、片手落ちになるだろう。
ドビュッシーの「音響宇宙」にはペダルの使用が不可欠だが、彼の発想はしばしば管弦楽的で、幾重もの音響レベルを明確に弾きわけるタッチとペダリングが求められる。
東洋美術に深い関心をもち、また作品にもとりいれたドビュッシーは、作曲にあたってのモットーを「ものごとの半分まで言って想像力に接ぎ木させる」と表現している。すべてをさらけ出さず、深く静かに潜行させるその姿勢は、東洋人、とりわけ日本人の美意識にもっとも近い作曲家ということができよう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス近代の印象派を代表する作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。ドビュッシーの音楽は、その特徴的な和音構成などで、音の印象を表現するという独特の表現スタイルを確立し、「印象主義音楽(印象派)」と称されている。
フランスのピアニスト。パリ国立高等音楽院にてピアノと室内楽でプルミエ・プリを満場一致で獲得。1991年ベルギーのエリーザベト王妃国際音楽コンクール優勝、さらにインターナショナル・ミュージック・アワードを審査員全員一致で受賞。 1991年10月パリでのデビュー・リサイタルを皮切りにヨーロッパ各地で演奏活動を始める。
四手のためのピアノ連弾曲。《6つの古代のエピグラフ》のもとになるスケッチは、ドビュッシーの友人ピエール・ルイス(1870~1925)の詩集『ビリティスの歌』の朗読を伴奏するための付随音楽として1990年に書かれたものである。それは、フルートとチェレスタとハープのためのものであったが、これは演奏されず、1914年、第一次世界大戦中、祖国フランスに貢献するために、ピアノ連弾曲として完成した。またこの曲は後に、指揮者アンセルメにより管弦楽に編曲されている。この曲には、ドビュッシーのギリシアへの深い憧憬がこめられている。彼の円熟した技法によって、6つの標題それぞれが示す、詩の世界が音画風に描き出されている。
1.夏の風の神、パンに祈るために / "Pour invoquer Pan, dieu du vent d'ete"。
2.無名の墓のために / "Pour un tombeau sans nom"。
3.夜が幸いであるために / "Pour que la nuit soit propice"。
4.カスタネットを持つ舞姫のために / "Pour la danseuse aux crotales"。
5.エジプト女のために / "Pour l'Egyptienne"。
6.朝の雨に感謝するために / "Pour remercier la pluie au matin"。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスの作曲家。
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日、父マニュエルと母ヴィクトリーヌの長男として、パリ西郊約20キロの町サン=ジェルマン=アン=レに生まれた。
ドビュッシーは、ワーグナーを乗り越えるためにフランス固有の美を武器とし、大胆な語法によって20世紀音楽への扉をあけた作曲家である。長調・短調の明確な対比を嫌った彼は、教会旋法、東洋風の5音音階、全音音階などを駆使し、印象派の画家たちが遠近法を回避するために画面を分割したように、平面的、スタティックな美を生み出した。
ドビュッシーのピアニズムには、大きくわけて次の3つの源流がある。モーテ夫人を通じて伝えられたショパンの技法(ビロードのようなタッチと美しい響き、軽やかなリズムなど)、やはりモーテ夫人に目を開かれたバッハの書法(対位法的、優雅なアラベスクなど)、18世紀クラヴサン音楽の技法(多彩な装飾音、「バトリ」など)。
ドビュッシー独自の語法としては、ペダルで白鍵と黒鍵の響きを混ぜたり、重音や和音塊を平行移動させたり、いくつもの層を積み重ねて、独特の「音響宇宙」を生み出したこと、ポリリズムやルバートを多用して自在な律動を作り出したことなどがあげられる。
1907年にドビュッシーは、「私はますます音楽というのは色彩と律動づけられた時間でできていると確信するようになった」と書いているが、調性からもリズムからも自由になりながら有機性を失わなかったドビュッシーの在り方を象徴するような言葉である。
『前奏曲集第1巻』が『管弦楽のための映像』の「イベリア」と同時進行していたように、ドビュッシーのピアノ曲はオーケストラ曲やオペラ、声楽曲と密接なかかわりももつものが多い。従って、単にピアノ曲としての解釈にとどまるのではなく、背景となっているテキストや管弦楽の色彩感をとりいれなければ、片手落ちになるだろう。
ドビュッシーの「音響宇宙」にはペダルの使用が不可欠だが、彼の発想はしばしば管弦楽的で、幾重もの音響レベルを明確に弾きわけるタッチとペダリングが求められる。
東洋美術に深い関心をもち、また作品にもとりいれたドビュッシーは、作曲にあたってのモットーを「ものごとの半分まで言って想像力に接ぎ木させる」と表現している。すべてをさらけ出さず、深く静かに潜行させるその姿勢は、東洋人、とりわけ日本人の美意識にもっとも近い作曲家ということができよう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス近代の印象派を代表する作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。ドビュッシーの音楽は、その特徴的な和音構成などで、音の印象を表現するという独特の表現スタイルを確立し、「印象主義音楽(印象派)」と称されている。