ショパン 軍隊ポロネーズ(第3番) Op.40-1 動画集 | Mボックス

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ショパン 軍隊ポロネーズ(第3番) Op.40-1 動画集

ショパンのポロネーズの動画集です。

ショパン 軍隊ポロネーズ Op.40-1

ショパン ポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番)

Chopin Polonaise Op.40, No.1 in A major “Military” (No.3)

ショパン ポロネーズ 第3番 軍隊ポロネーズ 作品40-1です。
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アルバム収録曲一覧

1. 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番) / ショパン,フレデリック / 樋口 あゆ子

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

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楽曲解説 - 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番)

このOp.40のポロネーズは、ショパンが1838年の秋から半年ほど、ジョルジュ・サンド、そして彼女の子供たちと共に、スペインのマヨルカ島を訪れた時に書き上げられた作品である。ショパンは過酷な旅の疲れから体調を崩し、さらに、結核患者と誤解されたことから島の人々からも酷い扱いを受けたのである。しかしそのような状況の中でも、ショパンはパリからプレイエルのピアノを取り寄せて、作曲の仕事を進めた。

パリに戻ったのは翌年の秋であったが、1年以上も留守にしていた間に出版社とのやりとりを任されていたのは、友人のユリアン・フォンタナであった。彼は、ショパンが送ってきた草稿を清書し、ショパンの指示を受けて出版社との交渉を行った。このOp.40は、そのフォンタナに献呈されている。

1835年以降は公的な場での演奏を避けていたショパンであったが、周囲の後押しもあり、1841年にプレイエルのホールで演奏会を開くことになった。このときの演奏会ではOp.40-1が演奏されたと言われている。Op.40-1は「軍隊」という愛称で知られ、おそらくショパンのポロネーズの中で最もポピュラーなものであろう。曲全体で用いられている舞曲のリズムや、ダ・カーポによって冒頭部分が反復する三部形式など、ポロネーズというジャンルの伝統的な特徴を備えている。さらに、中間部のファンファーレのフレーズや、低音部で轟くトリルなどによって、勇壮で英雄的な雰囲気が作り出されている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - ショパン,フレデリック

ポーランドの作曲家。ピアノの詩人。ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家。現在日本で一番愛されているロマン派音楽を代表する作曲家。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人。

当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、「ピアノの詩人」とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いたといわれている。その繊細で美しい響きの中にちりばめられた美しい旋律と、劇的で情熱的な展開が印象的で、世界中のピアノファンを魅了してやみません。また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地であった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。

演奏家解説 - 樋口 あゆ子

日本のピアニスト。85年毎日新聞社主催第39回全日本学生音楽コンク-ルピアノ部門中学生の部全国第1位。翌年、桐朋女子高等学校音楽科ピアノ専攻入学。同大学演奏学科ピアノ専攻卒業を経て95年同大学研究科終了。93年8月第17回全日本ピアノ指導者協会主催ピティナピアノコンペティション特級ソロ部門金賞。に入学。97年3月飛び級にてパリ・エコ-ルノルマル音楽院研究科演奏家課程審査員満場一致で卒業。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

2. 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番) / ショパン,フレデリック / フラーニ,マッシミリアーノ

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

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楽曲解説 - 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番)

このOp.40のポロネーズは、ショパンが1838年の秋から半年ほど、ジョルジュ・サンド、そして彼女の子供たちと共に、スペインのマヨルカ島を訪れた時に書き上げられた作品である。ショパンは過酷な旅の疲れから体調を崩し、さらに、結核患者と誤解されたことから島の人々からも酷い扱いを受けたのである。しかしそのような状況の中でも、ショパンはパリからプレイエルのピアノを取り寄せて、作曲の仕事を進めた。

パリに戻ったのは翌年の秋であったが、1年以上も留守にしていた間に出版社とのやりとりを任されていたのは、友人のユリアン・フォンタナであった。彼は、ショパンが送ってきた草稿を清書し、ショパンの指示を受けて出版社との交渉を行った。このOp.40は、そのフォンタナに献呈されている。

1835年以降は公的な場での演奏を避けていたショパンであったが、周囲の後押しもあり、1841年にプレイエルのホールで演奏会を開くことになった。このときの演奏会ではOp.40-1が演奏されたと言われている。Op.40-1は「軍隊」という愛称で知られ、おそらくショパンのポロネーズの中で最もポピュラーなものであろう。曲全体で用いられている舞曲のリズムや、ダ・カーポによって冒頭部分が反復する三部形式など、ポロネーズというジャンルの伝統的な特徴を備えている。さらに、中間部のファンファーレのフレーズや、低音部で轟くトリルなどによって、勇壮で英雄的な雰囲気が作り出されている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - ショパン,フレデリック

ポーランドの作曲家。ピアノの詩人。ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家。現在日本で一番愛されているロマン派音楽を代表する作曲家。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人。

当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、「ピアノの詩人」とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いたといわれている。その繊細で美しい響きの中にちりばめられた美しい旋律と、劇的で情熱的な展開が印象的で、世界中のピアノファンを魅了してやみません。また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地であった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。

演奏家解説 - フラーニ,マッシミリアーノ

ピアニスト。

3. 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番) / ショパン,フレデリック / ブレハッチ,ラファウ

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楽曲解説 - 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番)

このOp.40のポロネーズは、ショパンが1838年の秋から半年ほど、ジョルジュ・サンド、そして彼女の子供たちと共に、スペインのマヨルカ島を訪れた時に書き上げられた作品である。ショパンは過酷な旅の疲れから体調を崩し、さらに、結核患者と誤解されたことから島の人々からも酷い扱いを受けたのである。しかしそのような状況の中でも、ショパンはパリからプレイエルのピアノを取り寄せて、作曲の仕事を進めた。

パリに戻ったのは翌年の秋であったが、1年以上も留守にしていた間に出版社とのやりとりを任されていたのは、友人のユリアン・フォンタナであった。彼は、ショパンが送ってきた草稿を清書し、ショパンの指示を受けて出版社との交渉を行った。このOp.40は、そのフォンタナに献呈されている。

1835年以降は公的な場での演奏を避けていたショパンであったが、周囲の後押しもあり、1841年にプレイエルのホールで演奏会を開くことになった。このときの演奏会ではOp.40-1が演奏されたと言われている。Op.40-1は「軍隊」という愛称で知られ、おそらくショパンのポロネーズの中で最もポピュラーなものであろう。曲全体で用いられている舞曲のリズムや、ダ・カーポによって冒頭部分が反復する三部形式など、ポロネーズというジャンルの伝統的な特徴を備えている。さらに、中間部のファンファーレのフレーズや、低音部で轟くトリルなどによって、勇壮で英雄的な雰囲気が作り出されている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - ショパン,フレデリック

ポーランドの作曲家。ピアノの詩人。ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家。現在日本で一番愛されているロマン派音楽を代表する作曲家。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人。

当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、「ピアノの詩人」とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いたといわれている。その繊細で美しい響きの中にちりばめられた美しい旋律と、劇的で情熱的な展開が印象的で、世界中のピアノファンを魅了してやみません。また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地であった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。

演奏家解説 - ブレハッチ,ラファウ

ポーランドのピアノニスト。6歳から地元の音楽教室でピアノを習い始める。2002年アルトゥール・ルービンシュタイン国際青少年ピアノ・コンクール第2位、第15回フレデリック・ショパン国際ピアノ・コンクール優勝と副賞を全て受賞するという快挙を成し遂げた(同年2位は該当者なし)。ショパン・コンクール優勝以来、ヨーロッパ主要都市やアジアでのリサイタルやコンサートに出演している。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

4. 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番) / ショパン,フレデリック / ベルマン,ラザール

多少粗い演奏です。

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楽曲解説 - 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番)

このOp.40のポロネーズは、ショパンが1838年の秋から半年ほど、ジョルジュ・サンド、そして彼女の子供たちと共に、スペインのマヨルカ島を訪れた時に書き上げられた作品である。ショパンは過酷な旅の疲れから体調を崩し、さらに、結核患者と誤解されたことから島の人々からも酷い扱いを受けたのである。しかしそのような状況の中でも、ショパンはパリからプレイエルのピアノを取り寄せて、作曲の仕事を進めた。

パリに戻ったのは翌年の秋であったが、1年以上も留守にしていた間に出版社とのやりとりを任されていたのは、友人のユリアン・フォンタナであった。彼は、ショパンが送ってきた草稿を清書し、ショパンの指示を受けて出版社との交渉を行った。このOp.40は、そのフォンタナに献呈されている。

1835年以降は公的な場での演奏を避けていたショパンであったが、周囲の後押しもあり、1841年にプレイエルのホールで演奏会を開くことになった。このときの演奏会ではOp.40-1が演奏されたと言われている。Op.40-1は「軍隊」という愛称で知られ、おそらくショパンのポロネーズの中で最もポピュラーなものであろう。曲全体で用いられている舞曲のリズムや、ダ・カーポによって冒頭部分が反復する三部形式など、ポロネーズというジャンルの伝統的な特徴を備えている。さらに、中間部のファンファーレのフレーズや、低音部で轟くトリルなどによって、勇壮で英雄的な雰囲気が作り出されている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - ショパン,フレデリック

ポーランドの作曲家。ピアノの詩人。ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家。現在日本で一番愛されているロマン派音楽を代表する作曲家。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人。

当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、「ピアノの詩人」とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いたといわれている。その繊細で美しい響きの中にちりばめられた美しい旋律と、劇的で情熱的な展開が印象的で、世界中のピアノファンを魅了してやみません。また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地であった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。

演奏家解説 - ベルマン,ラザール

旧ソ連出身のロシア人ピアニスト。日本では慣習的に「ラザール」とフランス語風に表記されているが、ロシア語の発音では第一音節に強勢が置かれるため「ラーザリ」が近い。
「私は19世紀の人間であり、ヴィルトゥオーソと呼ばれるタイプの演奏家に属している」と自認していたように、鮮やかな超絶技巧と芝居っ気たっぷりの演奏、濃やかな情緒表現と強靭なタッチが特徴的で、一夜で3つのピアノ協奏曲とソナタ1曲を弾き切ったこともある。

5. 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番) / ショパン,フレデリック / アシュケナージ,ウラディーミル

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楽曲解説 - 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番)

このOp.40のポロネーズは、ショパンが1838年の秋から半年ほど、ジョルジュ・サンド、そして彼女の子供たちと共に、スペインのマヨルカ島を訪れた時に書き上げられた作品である。ショパンは過酷な旅の疲れから体調を崩し、さらに、結核患者と誤解されたことから島の人々からも酷い扱いを受けたのである。しかしそのような状況の中でも、ショパンはパリからプレイエルのピアノを取り寄せて、作曲の仕事を進めた。

パリに戻ったのは翌年の秋であったが、1年以上も留守にしていた間に出版社とのやりとりを任されていたのは、友人のユリアン・フォンタナであった。彼は、ショパンが送ってきた草稿を清書し、ショパンの指示を受けて出版社との交渉を行った。このOp.40は、そのフォンタナに献呈されている。

1835年以降は公的な場での演奏を避けていたショパンであったが、周囲の後押しもあり、1841年にプレイエルのホールで演奏会を開くことになった。このときの演奏会ではOp.40-1が演奏されたと言われている。Op.40-1は「軍隊」という愛称で知られ、おそらくショパンのポロネーズの中で最もポピュラーなものであろう。曲全体で用いられている舞曲のリズムや、ダ・カーポによって冒頭部分が反復する三部形式など、ポロネーズというジャンルの伝統的な特徴を備えている。さらに、中間部のファンファーレのフレーズや、低音部で轟くトリルなどによって、勇壮で英雄的な雰囲気が作り出されている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - ショパン,フレデリック

ポーランドの作曲家。ピアノの詩人。ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家。現在日本で一番愛されているロマン派音楽を代表する作曲家。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人。

当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、「ピアノの詩人」とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いたといわれている。その繊細で美しい響きの中にちりばめられた美しい旋律と、劇的で情熱的な展開が印象的で、世界中のピアノファンを魅了してやみません。また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地であった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。

演奏家解説 - アシュケナージ,ウラディーミル

旧ソヴィエト連邦出身のピアニスト・指揮者。ヘブライ語の姓(「ドイツ人」の意)が示す通り父方はユダヤ系だが、母は非ユダヤ系のロシア人である。

1937年にロシアのゴーリキー生まれた。1955年にはワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクールに出場し2位に輝いた。この時にアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことはよく知られている。

最近はN響などの音楽監督(指揮者)としても活躍中だが、ピアニストしても現在でも一流の演奏家。

6. 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番) / ショパン,フレデリック / ポリー二,マウリッツオ

楽譜と共に

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楽曲解説 - 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番)

このOp.40のポロネーズは、ショパンが1838年の秋から半年ほど、ジョルジュ・サンド、そして彼女の子供たちと共に、スペインのマヨルカ島を訪れた時に書き上げられた作品である。ショパンは過酷な旅の疲れから体調を崩し、さらに、結核患者と誤解されたことから島の人々からも酷い扱いを受けたのである。しかしそのような状況の中でも、ショパンはパリからプレイエルのピアノを取り寄せて、作曲の仕事を進めた。

パリに戻ったのは翌年の秋であったが、1年以上も留守にしていた間に出版社とのやりとりを任されていたのは、友人のユリアン・フォンタナであった。彼は、ショパンが送ってきた草稿を清書し、ショパンの指示を受けて出版社との交渉を行った。このOp.40は、そのフォンタナに献呈されている。

1835年以降は公的な場での演奏を避けていたショパンであったが、周囲の後押しもあり、1841年にプレイエルのホールで演奏会を開くことになった。このときの演奏会ではOp.40-1が演奏されたと言われている。Op.40-1は「軍隊」という愛称で知られ、おそらくショパンのポロネーズの中で最もポピュラーなものであろう。曲全体で用いられている舞曲のリズムや、ダ・カーポによって冒頭部分が反復する三部形式など、ポロネーズというジャンルの伝統的な特徴を備えている。さらに、中間部のファンファーレのフレーズや、低音部で轟くトリルなどによって、勇壮で英雄的な雰囲気が作り出されている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - ショパン,フレデリック

ポーランドの作曲家。ピアノの詩人。ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家。現在日本で一番愛されているロマン派音楽を代表する作曲家。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人。

当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、「ピアノの詩人」とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いたといわれている。その繊細で美しい響きの中にちりばめられた美しい旋律と、劇的で情熱的な展開が印象的で、世界中のピアノファンを魅了してやみません。また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地であった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。

演奏家解説 - ポリー二,マウリッツオ

イタリアのミラノ出身のピアニスト。1957年、15歳でジュネーブ国際コンクール第2位。1958年の同コンクールで1位なしの第2位。1959年のポッツォーリ・コンクールで優勝。
1960年、18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールに審査員全員一致で優勝。審査委員長のが「今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか」と賛辞を述べ、一躍国際的な名声を勝ち取る。

しかし、その後10年近く、表だった演奏活動から遠ざかっていた。1968年に演奏活動に復帰し、1971年よりドイツ・グラモフォンから録音作品を発売開始。

7. 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番) / ショパン,フレデリック / ダン・タイ・ソン

楽譜と共に

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楽曲解説 - 2つのポロネーズ 作品40 第1番 イ長調 「軍隊」 (第3番)

このOp.40のポロネーズは、ショパンが1838年の秋から半年ほど、ジョルジュ・サンド、そして彼女の子供たちと共に、スペインのマヨルカ島を訪れた時に書き上げられた作品である。ショパンは過酷な旅の疲れから体調を崩し、さらに、結核患者と誤解されたことから島の人々からも酷い扱いを受けたのである。しかしそのような状況の中でも、ショパンはパリからプレイエルのピアノを取り寄せて、作曲の仕事を進めた。

パリに戻ったのは翌年の秋であったが、1年以上も留守にしていた間に出版社とのやりとりを任されていたのは、友人のユリアン・フォンタナであった。彼は、ショパンが送ってきた草稿を清書し、ショパンの指示を受けて出版社との交渉を行った。このOp.40は、そのフォンタナに献呈されている。

1835年以降は公的な場での演奏を避けていたショパンであったが、周囲の後押しもあり、1841年にプレイエルのホールで演奏会を開くことになった。このときの演奏会ではOp.40-1が演奏されたと言われている。Op.40-1は「軍隊」という愛称で知られ、おそらくショパンのポロネーズの中で最もポピュラーなものであろう。曲全体で用いられている舞曲のリズムや、ダ・カーポによって冒頭部分が反復する三部形式など、ポロネーズというジャンルの伝統的な特徴を備えている。さらに、中間部のファンファーレのフレーズや、低音部で轟くトリルなどによって、勇壮で英雄的な雰囲気が作り出されている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - ショパン,フレデリック

ポーランドの作曲家。ピアノの詩人。ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家。現在日本で一番愛されているロマン派音楽を代表する作曲家。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人。

当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、「ピアノの詩人」とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いたといわれている。その繊細で美しい響きの中にちりばめられた美しい旋律と、劇的で情熱的な展開が印象的で、世界中のピアノファンを魅了してやみません。また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地であった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。

演奏家解説 - ダン・タイ・ソン

ベトナム・ハノイ出身のピアニスト。現在はカナダのモントリオール在住。1980年にアジア人で初めてショパン国際ピアノコンクールの覇者となった。