W.A.モーツァルトのピアノ協奏曲の動画集です。ピアノ・フォルテピアノなどの動画を集めました。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
モーツァルト最後のピアノ協奏曲。作品の完成は1791年1月5日だが、第1楽章の最初部分の五線紙が1788年に使用されていたものと同質であることから、その頃から着手されていた可能性が考えられる。いずれにしても、晩年の数年間、モーツァルトは失われてしまった名声の回復に奔走していた。しかし、オーストリアの不安定な情勢も相まって、モーツァルトの音楽活動が以前のように回復することはなかった。こうした状況下で生み出されたこの協奏曲には、付点を伴った軽やかさと明るい響きはあるものの、どこか諦観にも似た穏やかさを内包している。初演は同年3月4日、クラリネット奏者J.ベーアの演奏会において。これがモーツァルト最後の舞台となった。もっとも、すでに1月のナポリ王夫妻のヴィーン訪問を祝した演奏会のひとつにおいて、弟子のプロイヤーの独奏で初演を果たしていたという説もある。
第1楽章:アレグロ、変ロ長調、4/4拍子。協奏的ソナタ形式。全体として落ち着いた雰囲気であるが、頻繁な転調や半音階、対位法的パッセージなどが印象的である。ところで、いくつかの楽譜(例えば旧モーツァルト全集など)では、第46小節に続く7小節が欠如していることに注意を要する。これはモーツァルトが自筆譜に記譜し忘れたのに起因するが、その後の彼の処置からして、この7小節が挿入されるのは間違いない。
第2楽章:ラルゲット、変ホ長調、2/2拍子。三部形式。つぶやくような独奏ピアノによって始まる。楽章を通して、ピアノは華麗なパッセージよりもこうした旋律を受け持っている。
第3楽章:アレグロ、変ロ長調、6/8拍子。ロンド形式。前2楽章とは雰囲気を変えて軽やかで楽しげなロンド主題で始まるが、フィナーレにふさわしい壮大さも備え、最後はトゥッティによるユニゾンで決然と曲を閉じる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
オーストリアの作曲家。クラシック音楽史上もっとも有名なオーストリアの天才作曲家、演奏家。35歳のその生涯の中であらゆるジャンルにおいてすべて一流の作品を大量に作曲した。古典派音楽の代表であり、ウィーン古典派三大巨匠の一人である。称号は神聖ローマ帝国皇室宮廷作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長などを務めた。
モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。これは当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。彼が主に使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、非常に軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えていると考えられる。短調作品は少ないながらも、悲壮かつ哀愁あふれる曲調となっている。モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた。モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったことの証でもある。実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父による規制が無くなったため、モーツァルト自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。交響曲などがそれに当たる。思想的には、フリーメーソンがパトロンであったこともあり、その影響が指摘されている作品もある。
また、「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されている。
日本のピアニスト。桐朋学園大学音楽学部卒業。第18回文化放送音楽賞受賞後、オーストリア国立音楽大学へ留学。近年は東京で隔年に一度のリサイタル、ロシアのヴァイオリニストとの共演、Internation-Duo-Concert等ソロ、室内楽にと活躍している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より