「ピティナ・ピアノ曲事典」より
PTNA2022年F級課題曲
第3曲目は、この3つの夜想曲が出版された1883年に作曲された。初演は、1886年1月の国民音楽協会にてボルド=ペーヌ夫人により行われている。ボルド=ペーヌ夫人(1858~1924)は、音楽研究家であり作曲家であったシャルル・ボルド(1863~1909)の義姉にあたるピアニストである。彼女は、パリ音楽院で1872年にプルミエ・プリを獲得している。変イ長調のこの第3番の夜想曲を捧げられたのは、A. ボオモレツ夫人である。ボオモレツ夫人は、音楽愛好家として知られているカミーユ・クレルク(1828~1882)の2度目の妻の姉にあたる。クレルクは当時、パリのモンソー街に構えた自宅で、頻繁に室内楽の演奏会を催していた。アンダンテ・コン・モートのこの夜想曲も、第1番、第2番と同様に、3部形式で書かれている。しかし、その形としては、3曲中最も簡素に書かれている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南仏パミエ生まれのフォーレは、父親が校長を務めるモンゴジの師範学校の礼拝堂でハルモニウム1を弾いて幼少期を過ごした。そこで音楽的才能を見出され、9歳の時にパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校へ入学する。
フォーレの現存する作品は、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲が中心である。もちろん舞台作品や管弦楽作品も手掛けてはいるのだが、作品数は決して豊富とは言えず、また未完成あるいは未出版に終わったものも散見されているのが現状である。
フォーレにとってのピアノ曲は、歌曲同様に、その60年にわたる創作期間の初期から晩年に至るまで常に取り組んだ重要な創作ジャンルである。ショパンをはじめとするロマン派作曲家のピアノ小品のジャンルを踏襲したものが多い。しかし、ニデルメイエール校での教育に影響を受けたとされる旋法的な和声語法や対位法的な旋律語法には、ジャンルの歴史におけるフォーレの個性を見ることができる。フォーレの作品様式に関して、フォーレ研究の第一人者であるジャン=ミシェル・ネクトゥーはその著書『評伝フォーレ』の中で、ロマン派からの影響の脱却と作曲家自身の様式の探求を試みた第1期(1860-86)、半音階や対位法、和声法などの音楽語法の模索により独自の様式を押し進めた第2期(1886-1905)、対位法書法への傾倒と斬新な和声の創出が行われた第3期(1906-24)というように3つの時代区分を提唱している。もちろん、旋法的な和声の使用、反復するリズム、そして息の長い旋律というように、どの時代の作品にも共通して見られる音楽的特徴はあるため、この区分は絶対的なものではないが、フォーレの長い創作期間の変遷を把握する指標にはなり得る。
第1期から第2期前半に当たる1860年代から1890年代前半にかけては、比較的創作量が多い。多くはピアノ曲や歌曲、さらにはピアノ四重奏曲などの室内楽に充てられている。そして、ロマン派の影響が色濃いこの時期の作品は華々しさを具えており、今日演奏される頻度も高い。しかし、音楽院での職務に追われる1890年代後半以降は創作のペースがやや鈍る。とはいえ、大規模作品の発表機会が多くなっている。また、規模の大きな室内楽曲にも集中的に取り組まれている。このような大きな作品の積極的な発表の裏には、音楽院での院長職などの社会的地位の向上や多くの弟子らによる支えがあった。全音音階的旋律の多用、対位法を使った簡潔な書法のように、初期とは明らかに異なる作風へと変化している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。ピティナ・ピアノコンペティションA2、B、Jr.G級全国大会出場。デュオ初級A全国最高位。2006年F級において金賞。併せて読売新聞社賞、聖徳大学川並賞受賞。ショパン国際ピアノコンクール in Asia 3・4年の部、銀賞、コンチェルトA部門銅賞。 11歳の時、パリのスタインウェイコンクール中級II、満場一致の第1位。6年生よりチャリティーコンサートを開き、NPOなどの海外ボランティア団体に募金を続ける。現在桐朋学園大学音楽科ピアノ専攻在学中。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
PTNA2022年F級課題曲
第3曲目は、この3つの夜想曲が出版された1883年に作曲された。初演は、1886年1月の国民音楽協会にてボルド=ペーヌ夫人により行われている。ボルド=ペーヌ夫人(1858~1924)は、音楽研究家であり作曲家であったシャルル・ボルド(1863~1909)の義姉にあたるピアニストである。彼女は、パリ音楽院で1872年にプルミエ・プリを獲得している。変イ長調のこの第3番の夜想曲を捧げられたのは、A. ボオモレツ夫人である。ボオモレツ夫人は、音楽愛好家として知られているカミーユ・クレルク(1828~1882)の2度目の妻の姉にあたる。クレルクは当時、パリのモンソー街に構えた自宅で、頻繁に室内楽の演奏会を催していた。アンダンテ・コン・モートのこの夜想曲も、第1番、第2番と同様に、3部形式で書かれている。しかし、その形としては、3曲中最も簡素に書かれている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南仏パミエ生まれのフォーレは、父親が校長を務めるモンゴジの師範学校の礼拝堂でハルモニウム1を弾いて幼少期を過ごした。そこで音楽的才能を見出され、9歳の時にパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校へ入学する。
フォーレの現存する作品は、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲が中心である。もちろん舞台作品や管弦楽作品も手掛けてはいるのだが、作品数は決して豊富とは言えず、また未完成あるいは未出版に終わったものも散見されているのが現状である。
フォーレにとってのピアノ曲は、歌曲同様に、その60年にわたる創作期間の初期から晩年に至るまで常に取り組んだ重要な創作ジャンルである。ショパンをはじめとするロマン派作曲家のピアノ小品のジャンルを踏襲したものが多い。しかし、ニデルメイエール校での教育に影響を受けたとされる旋法的な和声語法や対位法的な旋律語法には、ジャンルの歴史におけるフォーレの個性を見ることができる。フォーレの作品様式に関して、フォーレ研究の第一人者であるジャン=ミシェル・ネクトゥーはその著書『評伝フォーレ』の中で、ロマン派からの影響の脱却と作曲家自身の様式の探求を試みた第1期(1860-86)、半音階や対位法、和声法などの音楽語法の模索により独自の様式を押し進めた第2期(1886-1905)、対位法書法への傾倒と斬新な和声の創出が行われた第3期(1906-24)というように3つの時代区分を提唱している。もちろん、旋法的な和声の使用、反復するリズム、そして息の長い旋律というように、どの時代の作品にも共通して見られる音楽的特徴はあるため、この区分は絶対的なものではないが、フォーレの長い創作期間の変遷を把握する指標にはなり得る。
第1期から第2期前半に当たる1860年代から1890年代前半にかけては、比較的創作量が多い。多くはピアノ曲や歌曲、さらにはピアノ四重奏曲などの室内楽に充てられている。そして、ロマン派の影響が色濃いこの時期の作品は華々しさを具えており、今日演奏される頻度も高い。しかし、音楽院での職務に追われる1890年代後半以降は創作のペースがやや鈍る。とはいえ、大規模作品の発表機会が多くなっている。また、規模の大きな室内楽曲にも集中的に取り組まれている。このような大きな作品の積極的な発表の裏には、音楽院での院長職などの社会的地位の向上や多くの弟子らによる支えがあった。全音音階的旋律の多用、対位法を使った簡潔な書法のように、初期とは明らかに異なる作風へと変化している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
スペインのピアニストで、20世紀を代表するピアニストの一人。スペイン・ピアノ界の長老として幼少期から約70年にわたって長いキャリアを誇っていた。19世紀から20世紀のスペインのピアノ曲の専門家として一般的には有名。
PTNA2022年F級課題曲
第3曲目は、この3つの夜想曲が出版された1883年に作曲された。初演は、1886年1月の国民音楽協会にてボルド=ペーヌ夫人により行われている。ボルド=ペーヌ夫人(1858~1924)は、音楽研究家であり作曲家であったシャルル・ボルド(1863~1909)の義姉にあたるピアニストである。彼女は、パリ音楽院で1872年にプルミエ・プリを獲得している。変イ長調のこの第3番の夜想曲を捧げられたのは、A. ボオモレツ夫人である。ボオモレツ夫人は、音楽愛好家として知られているカミーユ・クレルク(1828~1882)の2度目の妻の姉にあたる。クレルクは当時、パリのモンソー街に構えた自宅で、頻繁に室内楽の演奏会を催していた。アンダンテ・コン・モートのこの夜想曲も、第1番、第2番と同様に、3部形式で書かれている。しかし、その形としては、3曲中最も簡素に書かれている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南仏パミエ生まれのフォーレは、父親が校長を務めるモンゴジの師範学校の礼拝堂でハルモニウム1を弾いて幼少期を過ごした。そこで音楽的才能を見出され、9歳の時にパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校へ入学する。
フォーレの現存する作品は、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲が中心である。もちろん舞台作品や管弦楽作品も手掛けてはいるのだが、作品数は決して豊富とは言えず、また未完成あるいは未出版に終わったものも散見されているのが現状である。
フォーレにとってのピアノ曲は、歌曲同様に、その60年にわたる創作期間の初期から晩年に至るまで常に取り組んだ重要な創作ジャンルである。ショパンをはじめとするロマン派作曲家のピアノ小品のジャンルを踏襲したものが多い。しかし、ニデルメイエール校での教育に影響を受けたとされる旋法的な和声語法や対位法的な旋律語法には、ジャンルの歴史におけるフォーレの個性を見ることができる。フォーレの作品様式に関して、フォーレ研究の第一人者であるジャン=ミシェル・ネクトゥーはその著書『評伝フォーレ』の中で、ロマン派からの影響の脱却と作曲家自身の様式の探求を試みた第1期(1860-86)、半音階や対位法、和声法などの音楽語法の模索により独自の様式を押し進めた第2期(1886-1905)、対位法書法への傾倒と斬新な和声の創出が行われた第3期(1906-24)というように3つの時代区分を提唱している。もちろん、旋法的な和声の使用、反復するリズム、そして息の長い旋律というように、どの時代の作品にも共通して見られる音楽的特徴はあるため、この区分は絶対的なものではないが、フォーレの長い創作期間の変遷を把握する指標にはなり得る。
第1期から第2期前半に当たる1860年代から1890年代前半にかけては、比較的創作量が多い。多くはピアノ曲や歌曲、さらにはピアノ四重奏曲などの室内楽に充てられている。そして、ロマン派の影響が色濃いこの時期の作品は華々しさを具えており、今日演奏される頻度も高い。しかし、音楽院での職務に追われる1890年代後半以降は創作のペースがやや鈍る。とはいえ、大規模作品の発表機会が多くなっている。また、規模の大きな室内楽曲にも集中的に取り組まれている。このような大きな作品の積極的な発表の裏には、音楽院での院長職などの社会的地位の向上や多くの弟子らによる支えがあった。全音音階的旋律の多用、対位法を使った簡潔な書法のように、初期とは明らかに異なる作風へと変化している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスのピアノ奏法に典型的な優雅さと精巧さを体現するピアニストの一人とされている。
PTNA2022年F級課題曲
第3曲目は、この3つの夜想曲が出版された1883年に作曲された。初演は、1886年1月の国民音楽協会にてボルド=ペーヌ夫人により行われている。ボルド=ペーヌ夫人(1858~1924)は、音楽研究家であり作曲家であったシャルル・ボルド(1863~1909)の義姉にあたるピアニストである。彼女は、パリ音楽院で1872年にプルミエ・プリを獲得している。変イ長調のこの第3番の夜想曲を捧げられたのは、A. ボオモレツ夫人である。ボオモレツ夫人は、音楽愛好家として知られているカミーユ・クレルク(1828~1882)の2度目の妻の姉にあたる。クレルクは当時、パリのモンソー街に構えた自宅で、頻繁に室内楽の演奏会を催していた。アンダンテ・コン・モートのこの夜想曲も、第1番、第2番と同様に、3部形式で書かれている。しかし、その形としては、3曲中最も簡素に書かれている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南仏パミエ生まれのフォーレは、父親が校長を務めるモンゴジの師範学校の礼拝堂でハルモニウム1を弾いて幼少期を過ごした。そこで音楽的才能を見出され、9歳の時にパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校へ入学する。
フォーレの現存する作品は、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲が中心である。もちろん舞台作品や管弦楽作品も手掛けてはいるのだが、作品数は決して豊富とは言えず、また未完成あるいは未出版に終わったものも散見されているのが現状である。
フォーレにとってのピアノ曲は、歌曲同様に、その60年にわたる創作期間の初期から晩年に至るまで常に取り組んだ重要な創作ジャンルである。ショパンをはじめとするロマン派作曲家のピアノ小品のジャンルを踏襲したものが多い。しかし、ニデルメイエール校での教育に影響を受けたとされる旋法的な和声語法や対位法的な旋律語法には、ジャンルの歴史におけるフォーレの個性を見ることができる。フォーレの作品様式に関して、フォーレ研究の第一人者であるジャン=ミシェル・ネクトゥーはその著書『評伝フォーレ』の中で、ロマン派からの影響の脱却と作曲家自身の様式の探求を試みた第1期(1860-86)、半音階や対位法、和声法などの音楽語法の模索により独自の様式を押し進めた第2期(1886-1905)、対位法書法への傾倒と斬新な和声の創出が行われた第3期(1906-24)というように3つの時代区分を提唱している。もちろん、旋法的な和声の使用、反復するリズム、そして息の長い旋律というように、どの時代の作品にも共通して見られる音楽的特徴はあるため、この区分は絶対的なものではないが、フォーレの長い創作期間の変遷を把握する指標にはなり得る。
第1期から第2期前半に当たる1860年代から1890年代前半にかけては、比較的創作量が多い。多くはピアノ曲や歌曲、さらにはピアノ四重奏曲などの室内楽に充てられている。そして、ロマン派の影響が色濃いこの時期の作品は華々しさを具えており、今日演奏される頻度も高い。しかし、音楽院での職務に追われる1890年代後半以降は創作のペースがやや鈍る。とはいえ、大規模作品の発表機会が多くなっている。また、規模の大きな室内楽曲にも集中的に取り組まれている。このような大きな作品の積極的な発表の裏には、音楽院での院長職などの社会的地位の向上や多くの弟子らによる支えがあった。全音音階的旋律の多用、対位法を使った簡潔な書法のように、初期とは明らかに異なる作風へと変化している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス人女性ピアニスト
楽譜と共に
PTNA2022年F級課題曲
第3曲目は、この3つの夜想曲が出版された1883年に作曲された。初演は、1886年1月の国民音楽協会にてボルド=ペーヌ夫人により行われている。ボルド=ペーヌ夫人(1858~1924)は、音楽研究家であり作曲家であったシャルル・ボルド(1863~1909)の義姉にあたるピアニストである。彼女は、パリ音楽院で1872年にプルミエ・プリを獲得している。変イ長調のこの第3番の夜想曲を捧げられたのは、A. ボオモレツ夫人である。ボオモレツ夫人は、音楽愛好家として知られているカミーユ・クレルク(1828~1882)の2度目の妻の姉にあたる。クレルクは当時、パリのモンソー街に構えた自宅で、頻繁に室内楽の演奏会を催していた。アンダンテ・コン・モートのこの夜想曲も、第1番、第2番と同様に、3部形式で書かれている。しかし、その形としては、3曲中最も簡素に書かれている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南仏パミエ生まれのフォーレは、父親が校長を務めるモンゴジの師範学校の礼拝堂でハルモニウム1を弾いて幼少期を過ごした。そこで音楽的才能を見出され、9歳の時にパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校へ入学する。
フォーレの現存する作品は、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲が中心である。もちろん舞台作品や管弦楽作品も手掛けてはいるのだが、作品数は決して豊富とは言えず、また未完成あるいは未出版に終わったものも散見されているのが現状である。
フォーレにとってのピアノ曲は、歌曲同様に、その60年にわたる創作期間の初期から晩年に至るまで常に取り組んだ重要な創作ジャンルである。ショパンをはじめとするロマン派作曲家のピアノ小品のジャンルを踏襲したものが多い。しかし、ニデルメイエール校での教育に影響を受けたとされる旋法的な和声語法や対位法的な旋律語法には、ジャンルの歴史におけるフォーレの個性を見ることができる。フォーレの作品様式に関して、フォーレ研究の第一人者であるジャン=ミシェル・ネクトゥーはその著書『評伝フォーレ』の中で、ロマン派からの影響の脱却と作曲家自身の様式の探求を試みた第1期(1860-86)、半音階や対位法、和声法などの音楽語法の模索により独自の様式を押し進めた第2期(1886-1905)、対位法書法への傾倒と斬新な和声の創出が行われた第3期(1906-24)というように3つの時代区分を提唱している。もちろん、旋法的な和声の使用、反復するリズム、そして息の長い旋律というように、どの時代の作品にも共通して見られる音楽的特徴はあるため、この区分は絶対的なものではないが、フォーレの長い創作期間の変遷を把握する指標にはなり得る。
第1期から第2期前半に当たる1860年代から1890年代前半にかけては、比較的創作量が多い。多くはピアノ曲や歌曲、さらにはピアノ四重奏曲などの室内楽に充てられている。そして、ロマン派の影響が色濃いこの時期の作品は華々しさを具えており、今日演奏される頻度も高い。しかし、音楽院での職務に追われる1890年代後半以降は創作のペースがやや鈍る。とはいえ、大規模作品の発表機会が多くなっている。また、規模の大きな室内楽曲にも集中的に取り組まれている。このような大きな作品の積極的な発表の裏には、音楽院での院長職などの社会的地位の向上や多くの弟子らによる支えがあった。全音音階的旋律の多用、対位法を使った簡潔な書法のように、初期とは明らかに異なる作風へと変化している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
PTNA2022年F級課題曲
第3曲目は、この3つの夜想曲が出版された1883年に作曲された。初演は、1886年1月の国民音楽協会にてボルド=ペーヌ夫人により行われている。ボルド=ペーヌ夫人(1858~1924)は、音楽研究家であり作曲家であったシャルル・ボルド(1863~1909)の義姉にあたるピアニストである。彼女は、パリ音楽院で1872年にプルミエ・プリを獲得している。変イ長調のこの第3番の夜想曲を捧げられたのは、A. ボオモレツ夫人である。ボオモレツ夫人は、音楽愛好家として知られているカミーユ・クレルク(1828~1882)の2度目の妻の姉にあたる。クレルクは当時、パリのモンソー街に構えた自宅で、頻繁に室内楽の演奏会を催していた。アンダンテ・コン・モートのこの夜想曲も、第1番、第2番と同様に、3部形式で書かれている。しかし、その形としては、3曲中最も簡素に書かれている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南仏パミエ生まれのフォーレは、父親が校長を務めるモンゴジの師範学校の礼拝堂でハルモニウム1を弾いて幼少期を過ごした。そこで音楽的才能を見出され、9歳の時にパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校へ入学する。
フォーレの現存する作品は、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲が中心である。もちろん舞台作品や管弦楽作品も手掛けてはいるのだが、作品数は決して豊富とは言えず、また未完成あるいは未出版に終わったものも散見されているのが現状である。
フォーレにとってのピアノ曲は、歌曲同様に、その60年にわたる創作期間の初期から晩年に至るまで常に取り組んだ重要な創作ジャンルである。ショパンをはじめとするロマン派作曲家のピアノ小品のジャンルを踏襲したものが多い。しかし、ニデルメイエール校での教育に影響を受けたとされる旋法的な和声語法や対位法的な旋律語法には、ジャンルの歴史におけるフォーレの個性を見ることができる。フォーレの作品様式に関して、フォーレ研究の第一人者であるジャン=ミシェル・ネクトゥーはその著書『評伝フォーレ』の中で、ロマン派からの影響の脱却と作曲家自身の様式の探求を試みた第1期(1860-86)、半音階や対位法、和声法などの音楽語法の模索により独自の様式を押し進めた第2期(1886-1905)、対位法書法への傾倒と斬新な和声の創出が行われた第3期(1906-24)というように3つの時代区分を提唱している。もちろん、旋法的な和声の使用、反復するリズム、そして息の長い旋律というように、どの時代の作品にも共通して見られる音楽的特徴はあるため、この区分は絶対的なものではないが、フォーレの長い創作期間の変遷を把握する指標にはなり得る。
第1期から第2期前半に当たる1860年代から1890年代前半にかけては、比較的創作量が多い。多くはピアノ曲や歌曲、さらにはピアノ四重奏曲などの室内楽に充てられている。そして、ロマン派の影響が色濃いこの時期の作品は華々しさを具えており、今日演奏される頻度も高い。しかし、音楽院での職務に追われる1890年代後半以降は創作のペースがやや鈍る。とはいえ、大規模作品の発表機会が多くなっている。また、規模の大きな室内楽曲にも集中的に取り組まれている。このような大きな作品の積極的な発表の裏には、音楽院での院長職などの社会的地位の向上や多くの弟子らによる支えがあった。全音音階的旋律の多用、対位法を使った簡潔な書法のように、初期とは明らかに異なる作風へと変化している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスのピアニスト。シャンパーニュ地方のランス生まれ。アルフレッド・コルトーの愛弟子の一人であり、コルトーの勧めで6歳より本格的な勉強を始める。1952年にパリ国立高等音楽院に進学。ブランシュ・バスクレ・ド・ゲラルディ(Blanche Bascouret de Gueraldi)、マルセル・シャンピに師事。1954年にプルミエ・プリ(首席)で卒業する。
1955年フランス、サル・ガヴォーでデビューを果たし、同年パリのシャンゼリゼ劇場でのリサイタルが成功し、名声を高める。1957年にはヴィルヘルム・ケンプの薫陶も受けている。
1960年にアメリカデビューを果たし、ターニャと結婚。50年代末から60年代にかけてのハイドシェックは主にモーツァルト弾きとして、ヴァンデルノートと第20番、第21番、第23番、第24番、第25番、第27番のピアノ協奏曲の録音を残している。また師匠のアルフレッド・コルトーには彼の死の年(1962年)まで指導を受ける。その後、旧ソ連、イギリス等で活動した。特に日本には熱心なファンが多い。またリヨン国立高等音楽院教授を17年間つとめ、後進の指導にも当たっている。
ベートーヴェンとモーツァルトの個性的かつスタイリッシュな解釈で知られる。