リスト 詩的で宗教的な調べ 第7番 葬送曲の動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。東京藝術大学卒業。現在、同大学大学院ピアノ科に在籍中。2005年/ペトロフピアノコンクール最高位。2006年/日本クラシック音楽コンクール全国大会第5位。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
クリアで美しい音色。表情豊かで気品のある演奏です。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスのピアニスト。パリ音楽院でリュセット・デカーヴにピアノを、ジャン・ユボーに室内楽を学ぶ。その後、これまで弟子をとらなかったサンソン・フランソワの唯一の弟子となり、ロン=ティボー国際コンクールのほか、チャイコフスキー国際コンクールで入賞。これまで、世界的に著名な指揮者やオーケストラと共演。また室内楽でも積極的に活動。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
しなやかでのびやかな音色。美しい演奏です。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「現代最後のロマン派」と称される、アメリカで最も有名なピアニストの一人。世界各国の著名コンサートホールにおける演奏経験を持つ。ブゾーニ国際ピアノコンクールで優勝後、20代前半の若さで世界を舞台に活躍を始める。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ピアニスト。
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「現代最後のロマン派」と称される、アメリカで最も有名なピアニストの一人。世界各国の著名コンサートホールにおける演奏経験を持つ。ブゾーニ国際ピアノコンクールで優勝後、20代前半の若さで世界を舞台に活躍を始める。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
Harmonies Poetiques et Religieuses was composed by Liszt in 1849 after the Habsburgs had put down the Hungarian Revolution. Funerailles, No. 7, is the most often performed section of this composition.
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
チェコ出身でクロアチアで育った、オーストリアのピアニスト。1970年フィリップスと専属契約を結び、リリースしたレコードで、その名声を決定づける。 華麗さや派手さはないものの、中庸を行く知的で正統的な解釈で多くの音楽ファンを惹きつけている。ドイツ・オーストリア音楽の王道とも言うべき作曲家の作品を得意としている。ソロ以外では室内楽や歌曲の伴奏でも多くの名演奏を生み出している。2008年12月のコンサートをもって引退した
originally telecast july 31,1977
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
アルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。1955年、アルゲリッチの演奏を聴いたフアン・ペロン大統領は、彼女に優れた音楽教育を受けさせるため、外交官であった彼女の父親にウィーン赴任を命じたほどの才能を示していた。家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。1969年、シャルル・デュトワと結婚し(2度目)、娘をもうけるが、来日の際に夫婦喧嘩となり、アルゲリッチだけが帰国し離婚した逸話もある。後にピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。
ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり室内楽に活動の幅を広げる。ヴァイオリニストのクレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。
1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。1998年から別府アルゲリッチ音楽祭、1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール、2001年からブエノスアイレス-マルタ・アルゲリッチ音楽祭、2002年からルガーノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。
Live recording, 1977, in Carnegie Hall. ~~~ Wishing you all a great 2011 Liszt year, his 200th anniversary! ~~~ Fun?railles is an elegy written in 1849 as the 7th piece of Liszt's "Harmonies Po?tiques
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
旧ソ連出身のロシア人ピアニスト。日本では慣習的に「ラザール」とフランス語風に表記されているが、ロシア語の発音では第一音節に強勢が置かれるため「ラーザリ」が近い。
「私は19世紀の人間であり、ヴィルトゥオーソと呼ばれるタイプの演奏家に属している」と自認していたように、鮮やかな超絶技巧と芝居っ気たっぷりの演奏、濃やかな情緒表現と強靭なタッチが特徴的で、一夜で3つのピアノ協奏曲とソナタ1曲を弾き切ったこともある。
Harmonies Poetiques et Religieuses was composed by Liszt in 1849 after the Habsburgs had put down the Hungarian Revolution. Funerailles, No. 7, is the most often performed section of this composition.
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ポーランド出身のピアニスト。「ショパン弾き」と言われるほどショパンの演奏は自然で気品に満ちている。90歳近くまで現役として演奏を続けていたため、録音が残されている。ショパンのイメージが強いが実は他の作曲家、室内楽での演奏(録音)にも名演が数多く存在する。
Recording date: 15 November, 1932 ~~~ Fun?railles is an elegy written in 1849 as the 7th piece of Liszt's "Harmonies Po?tiques et Religieuses" and as a response to the crushing of the Hungarian Revolu
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ウクライナ生まれのアメリカのピアニスト。最後のヴィルティオーゾ(巨匠)スタイルのピアニストと言われている。ロシアで生まれ、その後亡命して後半生はアメリカを中心に演奏家として活躍した。
チャールズ皇太子が、ダイアナが第一子を生んだ時に演奏に来てほしいとホロヴィッツに頼んだ時は、「コンコルドでロンドンに行けるなら演奏してもよい」と発言し、本当にコンコルドでに乗って出かけた(もちろん、イレギュラーで)、という今となっては伝説化しているエピソードもある。
途中、演奏を中断していた時期もありましたが、「復活」のリサイタルは、歴史的なカムバックとしてライブが残されています。
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアのピアニスト。わずか2歳でピアノを学び始める。のちグネーシン音楽大学に進んで、アンナ・パヴロフナ=カントルに今日まで師事する。10歳でピアノ協奏曲を弾いてデビュー、11歳で初リサイタルを開くなど、幼い頃から神童ぶりを発揮する。現在若手ピアニストの中では一番の人気と実力を誇る。
A stupendous performance of Fun?railles, a huge piano piece (the seventh of the 'Harmonies po?tiques et religieuses') by Franz Liszt (as transcribed by Jeanne Demessieux [1921-1968], titular organist
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランスのオルガニスト。
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南米チリ出身でアメリカを中心に活動したピアニスト。20世紀を代表するピアノの巨匠として知られた。
1941年、カーネギー・ホールにデビューし、翌年より本拠をアメリカに移す。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍(日本には1965年初来日)。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。
写真+演奏ですが、1080HDです。ですから、音質はかなりGood演奏は、いつごろか分かりませんが、往年のホロヴィッツの輝かしき演奏の記録であることは間違いありません。心に滲みる演奏です Sonate hmoll: 始めから30:00まで。Ballade No.2: 30:00から。Consolation No.3:45:30~Funerailles:50:05 から(Monaural)Mephisto Waltz No.1:1:00:45~ ソナタロ短調:始めから。バラード2番:30分くらいから。コンソレーション3番:45分30秒くらいから。詩的にして宗教的な調べ:50分05秒くらいから(モノラル録音)メフィストワルツ1番:1時間00分45秒くらいから。
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
7.葬送。1849年10月オーストリアのメッテルニヒによる反動政策に反抗して失敗し、処刑された祖国ハンガリーのリストの友人たち、リヒノフスキー侯、テレキー男爵、バッティヤニー伯爵に対する追悼の念がこめられた作品だとされる。しばしば単独でも演奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ウクライナ生まれのアメリカのピアニスト。最後のヴィルティオーゾ(巨匠)スタイルのピアニストと言われている。ロシアで生まれ、その後亡命して後半生はアメリカを中心に演奏家として活躍した。
チャールズ皇太子が、ダイアナが第一子を生んだ時に演奏に来てほしいとホロヴィッツに頼んだ時は、「コンコルドでロンドンに行けるなら演奏してもよい」と発言し、本当にコンコルドでに乗って出かけた(もちろん、イレギュラーで)、という今となっては伝説化しているエピソードもある。
途中、演奏を中断していた時期もありましたが、「復活」のリサイタルは、歴史的なカムバックとしてライブが残されています。