リスト 詩的で宗教的な調べ 第6番 眠りから覚めた子供への賛歌の動画集です。
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
6.眠りから覚めた御子への賛歌。同名の男性合唱曲からの編曲。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ピアニスト。
13歳、リストはパリを訪れ、演奏家として華やかな生活を送る。この時代、多くの作曲家や詩人との交流があったが、フランス・ロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869年)もこのうちの一人である。彼らはベルギョジョーソ公夫人のサロンで出会い、深い交友関係をもった。この作品はそのラマルティーヌの同名の詩集からタイトルを借りている。詩集は1830年に出版され、当時20歳前後だったリストはこれに深い感銘を得た。晩年にはローマで聖職者の地位を得て、宗教的な生活に入ったリストであるが、この頃から内在していた彼の宗教的な側面が、この作品の中で大いに表現されている。10曲からなり、1845年から52年ころにかけて主にワイマールで作曲された。冒頭にラマルティーヌの詩から序文が載録されている。カロリーヌ・ヴィットゲン伯爵夫人への献辞が付されて1853年に出版された。
6.眠りから覚めた御子への賛歌。同名の男性合唱曲からの編曲。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「現代最後のロマン派」と称される、アメリカで最も有名なピアニストの一人。世界各国の著名コンサートホールにおける演奏経験を持つ。ブゾーニ国際ピアノコンクールで優勝後、20代前半の若さで世界を舞台に活躍を始める。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より