リスト 演奏会用練習曲S.145 全曲 動画集 | Mボックス

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リスト 演奏会用練習曲S.145 全曲 動画集

リスト 演奏会用練習曲 S.145 全曲の動画集です。

リスト 2つの演奏会用練習曲 全曲 S.145

リスト 2つの演奏会用練習曲 S.145,R.6

LISZT 2 Konzertetüden S.145,R.6

リストの2つの演奏会用練習曲S.145 全2曲です。
全2曲からなる練習曲集です。
リストの円熟期の作品です。
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アルバム収録曲一覧

1. 2つの演奏会用練習曲 S.145 全曲 / リスト,フランツ / 演奏者不明

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楽曲解説 - 2つの演奏会用練習曲 S.145 全曲

ワイマール時代に作曲された他の練習曲と違い、1862~63年にかけてローマで作曲された。この頃リストは、すでに50歳をこえているが、斬新な和声、洗練された技巧など、いずれも円熟期のリストの確かな自信が感じられる作品である。タイトルは作曲の際に与えられており、絵画的に作曲されている。

1.森のざわめき / No.1 "Waldesrauschen" 変ニ長調 ヴィヴァーチェ。原語の日本語訳で、“森のささやき”と広く知られていたが、それは誤訳であり、正確には“森のざわめき”と訳すのが適当である。冒頭から、木の葉ずれの音を想わせる16分音符の3連符の伴奏にのせて、優美な旋律がなめらかに歌われる。曲は次第に高まりをみせ、嵐のようなクライマックスをむかえる。その後再び冒頭の穏やかさをとりもどし、静かに曲を閉じる。

2.小人の踊り / No.2 "Gnomenreigen" 嬰へ短調 プレスト・スケルツァンド。短い前奏に続き、敏捷な動きをみせる楽想は、タイトルどおり、軽やかな妖精の舞いを想像させる。スケルツォ風の曲。ウン・ポコ・アニマートで登場する楽想と、主要楽想が、交互に登場する。調性の激しい移り変わり、急激なリズムの変化、デモーニッシュな雰囲気ももちあわせた魅力的な練習曲。比較的演奏が容易な第一曲に対して、非常に高度な技巧を要求する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

2. 2つの演奏会用練習曲 S.145 全曲 / リスト,フランツ / アラウ,クラウディオ

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楽曲解説 - 2つの演奏会用練習曲 S.145 全曲

ワイマール時代に作曲された他の練習曲と違い、1862~63年にかけてローマで作曲された。この頃リストは、すでに50歳をこえているが、斬新な和声、洗練された技巧など、いずれも円熟期のリストの確かな自信が感じられる作品である。タイトルは作曲の際に与えられており、絵画的に作曲されている。

1.森のざわめき / No.1 "Waldesrauschen" 変ニ長調 ヴィヴァーチェ。原語の日本語訳で、“森のささやき”と広く知られていたが、それは誤訳であり、正確には“森のざわめき”と訳すのが適当である。冒頭から、木の葉ずれの音を想わせる16分音符の3連符の伴奏にのせて、優美な旋律がなめらかに歌われる。曲は次第に高まりをみせ、嵐のようなクライマックスをむかえる。その後再び冒頭の穏やかさをとりもどし、静かに曲を閉じる。

2.小人の踊り / No.2 "Gnomenreigen" 嬰へ短調 プレスト・スケルツァンド。短い前奏に続き、敏捷な動きをみせる楽想は、タイトルどおり、軽やかな妖精の舞いを想像させる。スケルツォ風の曲。ウン・ポコ・アニマートで登場する楽想と、主要楽想が、交互に登場する。調性の激しい移り変わり、急激なリズムの変化、デモーニッシュな雰囲気ももちあわせた魅力的な練習曲。比較的演奏が容易な第一曲に対して、非常に高度な技巧を要求する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - アラウ,クラウディオ

南米チリ出身でアメリカを中心に活動したピアニスト。20世紀を代表するピアノの巨匠として知られた。
1941年、カーネギー・ホールにデビューし、翌年より本拠をアメリカに移す。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍(日本には1965年初来日)。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。