リスト パガニーニ大練習曲S.141-6 主題と変奏 動画集 | Mボックス

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リスト パガニーニ大練習曲S.141-6 主題と変奏 動画集

リスト パガニーニ大練習曲集S.141 第6番 イ短調 主題と変奏の動画集です。

リスト パガニーニによる大練習曲 第6番 イ短調 主題と変奏 S.141-6

リスト パガニーニ大練習曲 (1851年版)
第6番 イ短調 「主題と変奏」 S.141-6,R.3b-6

LISZT Grandes etudes de Paganini (1851 Revised version)
No.6 in A minor “Tema con Variazioni” S.141-6,R.3b-6

リストのパガニーニ大練習曲 第6番 イ短調 「主題と変奏」です。
全6曲からなる練習曲集です。
ニコロ・パガニーニの楽曲に基づいてフランツ・リストが作曲・編曲した作品です。
リスト パガニーニ大練習曲動画集一覧はこちら

アルバム収録曲一覧

1. パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」 / リスト,フランツ / 川口 智輝

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

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楽曲解説 - パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」

その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。

1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。

リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。

第6曲『主題と変奏』(イ短調)は、パガニーニ《24のカプリース》の中でも最も有名な第24番を原曲とする作品。リストのほかにも、この主題を基に多くの作曲家が変奏曲を書いている。原曲は11の変奏と終結部からなるが、リストもこの構成を踏襲しており、この第6曲は11の変奏とコーダからなっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - 川口 智輝

日本のピアニスト。東京藝術大学卒業。現在、同大学大学院ピアノ科に在籍中。 2005年/ピティナ・ピアノコンペティションF級大阪大会第1位、同全国大会銀賞。2006年/大阪国際音楽コンクール最高位。2009年/吹田音楽コンクール第1位。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

2. パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」 / リスト,フランツ / メルジャーノフ,ヴィクトル

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楽曲解説 - パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」

その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。

1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。

リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。

第6曲『主題と変奏』(イ短調)は、パガニーニ《24のカプリース》の中でも最も有名な第24番を原曲とする作品。リストのほかにも、この主題を基に多くの作曲家が変奏曲を書いている。原曲は11の変奏と終結部からなるが、リストもこの構成を踏襲しており、この第6曲は11の変奏とコーダからなっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - メルジャーノフ,ヴィクトル

ロシアのピアニスト・音楽教師。ソ連邦時代から半世紀以上にわたって現役で演奏・教育活動に取り組むロシア・ピアノ楽派の最長老であった。

3. パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」 / リスト,フランツ / グラフマン,ゲイリー

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楽曲解説 - パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」

その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。

1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。

リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。

第6曲『主題と変奏』(イ短調)は、パガニーニ《24のカプリース》の中でも最も有名な第24番を原曲とする作品。リストのほかにも、この主題を基に多くの作曲家が変奏曲を書いている。原曲は11の変奏と終結部からなるが、リストもこの構成を踏襲しており、この第6曲は11の変奏とコーダからなっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - グラフマン,ゲイリー

アメリカ生まれのピアニスト。彼はキャリアの途中で、右手薬指が動かなくなってしまい演奏ができなくなってしまいました。その後カーティス音楽院等で教鞭を執っています。

4. パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」 / リスト,フランツ / アムラン,マルカンドレ

Franz Liszt's virtuoso Paganini Etudes, No. 6 "Theme and Variations". Played live by Marc-Andr? Hamelin. 演奏と共に楽譜が見られます。

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楽曲解説 - パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」

その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。

1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。

リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。

第6曲『主題と変奏』(イ短調)は、パガニーニ《24のカプリース》の中でも最も有名な第24番を原曲とする作品。リストのほかにも、この主題を基に多くの作曲家が変奏曲を書いている。原曲は11の変奏と終結部からなるが、リストもこの構成を踏襲しており、この第6曲は11の変奏とコーダからなっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - アムラン,マルカンドレ

フランス系カナダ人のピアニスト。苦労の跡を見せない超絶技巧と洗練された演奏様式によって国際的に有名である。

5. パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」 / リスト,フランツ / アレクサンダー・ルビャンツェフ

ライブでこの演奏はすごいです。

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楽曲解説 - パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」

その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。

1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。

リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。

第6曲『主題と変奏』(イ短調)は、パガニーニ《24のカプリース》の中でも最も有名な第24番を原曲とする作品。リストのほかにも、この主題を基に多くの作曲家が変奏曲を書いている。原曲は11の変奏と終結部からなるが、リストもこの構成を踏襲しており、この第6曲は11の変奏とコーダからなっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - アレクサンダー・ルビャンツェフ

1986年サンクトペテルブルク生まれ。聖歌隊の指揮者でありアコーディオン奏者の父とピアニストの母という音楽一家に生まれ、5歳でピアノを始める。天才的な才能は幼い頃より発揮されて、1995年からロシア、ポーランドなどで行われたコンクールで入賞、その後2001年エストニアのナルヴァでのコンクールにて優勝、2002年サンクトペテルブルク国際ヤング・ピアニスト・コンクール第1位、2004年シドニー青年国際ピアニスト・コンクール5位入賞、2007年にはルーザ国際ピアニスト・コンクールにおける第1位を獲得するなどの数々の受賞歴を誇っている。2007年の第13回チャイコフスキー国際コンクールでも3位に入賞している。

6. パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」 / リスト,フランツ / ハワード,レスリー

The sixth, and perhaps most famous, of Liszts Grandes Etudes de Paganini. This is the revised version, from 1851. Played by Leslie Howard.

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楽曲解説 - パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」

その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。

1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。

リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。

第6曲『主題と変奏』(イ短調)は、パガニーニ《24のカプリース》の中でも最も有名な第24番を原曲とする作品。リストのほかにも、この主題を基に多くの作曲家が変奏曲を書いている。原曲は11の変奏と終結部からなるが、リストもこの構成を踏襲しており、この第6曲は11の変奏とコーダからなっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - ハワード,レスリー

オーストラリアのピアニスト。メルボルン出身。ハイペリオンにフランツ・リストのピアノ作品全曲録音集を残したことで有名。

7. パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」 / リスト,フランツ / アラウ,クラウディオ

Franz Liszt (1811-1886): Grosse Et?den nach Paganini Grandes ?tudes de Paganini Grand Etudes after Paganini Composed 1838, revised in 1851 (this is the 1851 version); dedicated to Clara Schumann (!) N

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その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。

1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。

リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。

第6曲『主題と変奏』(イ短調)は、パガニーニ《24のカプリース》の中でも最も有名な第24番を原曲とする作品。リストのほかにも、この主題を基に多くの作曲家が変奏曲を書いている。原曲は11の変奏と終結部からなるが、リストもこの構成を踏襲しており、この第6曲は11の変奏とコーダからなっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - アラウ,クラウディオ

南米チリ出身でアメリカを中心に活動したピアニスト。20世紀を代表するピアノの巨匠として知られた。
1941年、カーネギー・ホールにデビューし、翌年より本拠をアメリカに移す。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍(日本には1965年初来日)。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。

8. パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」 / リスト,フランツ / ヘミング,フジコ

イメージ画像と演奏。 一般的にパワフルな演奏が多いですが、 非常にやさしくロマンティックな演奏です。

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楽曲解説 - パガニーニ大練習曲集 (1851年版) S.141 第6番 イ短調 「主題と変奏」

その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。

1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。

リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。

第6曲『主題と変奏』(イ短調)は、パガニーニ《24のカプリース》の中でも最も有名な第24番を原曲とする作品。リストのほかにも、この主題を基に多くの作曲家が変奏曲を書いている。原曲は11の変奏と終結部からなるが、リストもこの構成を踏襲しており、この第6曲は11の変奏とコーダからなっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - ヘミング,フジコ

本名イングリッド・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミング(Ingrid Fuzjko Von Georgii-Hemming)は、日本とヨーロッパで活躍するピアニストである。日本名は大月 フジ(おおつき フジ)。

ロシア系スウェーデン人の画家・建築家のヨスタ・ゲオルギー・ヘミング(Josta Georgii Hemming)と、日本人ピアニストの大月投網子の間にベルリンで生まれる。スウェーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)。俳優の大月ウルフは実弟。