リスト パガニーニ大練習曲集S.141 第3番 嬰ト短調 ラ・カンパネッラの動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。1996年イタリアで開催されたマスタープレイヤーズ国際音楽コンクールで優勝。その後ヨーロッパ各地でリサイタルを開催、精力的に演奏活動を続けている。現在、タイを拠点に日本とヨーロッパを行き来する一方、タイ王国パヤップ大学音楽学部客員教授として、タイの音楽教育、AFSチャリティコンサートにも力を入れている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。1996年イタリアで開催されたマスタープレイヤーズ国際音楽コンクールで優勝。その後ヨーロッパ各地でリサイタルを開催、精力的に演奏活動を続けている。現在、タイを拠点に日本とヨーロッパを行き来する一方、タイ王国パヤップ大学音楽学部客員教授として、タイの音楽教育、AFSチャリティコンサートにも力を入れている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。東京芸術大学卒、同大学院修士課程修了。リクエストによるトーク付きコンサート、リサイタルを数箇所で開催、現代曲や室内楽にも力を入れている。
現在、(社)PTNA正会員、東京ミュージック&メディアアーツ尚美、山村学園短大及び埼玉県立大宮光陵高校非常勤講師。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。東京藝術大学卒業。現在、同大学大学院ピアノ科に在籍中。 2005年/ピティナ・ピアノコンペティションF級大阪大会第1位、同全国大会銀賞。2006年/大阪国際音楽コンクール最高位。2009年/吹田音楽コンクール第1位。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
やわらかくきらびやかな音色、非常にノーブルな演奏です。「ピティナ・ピアノ曲事典」より
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアのピアニスト。1962年ロシア・ロストフ生まれ。1983年ラフマニノフ・コンクール優勝。1991年2月ザルツブルグで開かれた第5回国際モーツァルトコンクール優勝。同年ブゾーニ国際コンクール 第4位、及びモーツァルト賞受賞。ロシア国内を始め、ヨーロッパ各地やアメリカ、南アフリカで演奏活動を展開。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。桐朋学園大学音楽学部演奏学科ピアノ科で学び、19歳よりバンクーバーに留学し、ロシア・レニングラード派の基礎を学ぶ。また、巨匠ラザール・ベルマンに弟子入りし、以後師の亡くなるまで師の最後の弟子としてイタリア・フィレンツェにて研鑽を重ねる。
ポップスとクラシックのコラボレーションを行い、クラシックを基にジャンルを超えた幅広い活動を展開、国内外での公演のほか、ピアノレクチャー、マスタークラスなど後進の育成にも精力的にあたっている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
音源情報:CD「LISZT Selected Piano Works」(ALM RECORDSより) 「ピティナ・ピアノ曲事典」より
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。1983年東京芸術大学卒業、第52回日本音楽コンクール(毎日新聞社、NHM共催)入選。1984~86年ハンガリーのリスト音楽院に留学。1987年東京芸術大学大学院修了。以降、東京、札幌で定期的にリサイタルを開催し、加えて各地での演奏会、公開講座、録音等で活躍。現在、武蔵野音楽大学、東京芸術大学各講師。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
福間 洸太朗 ピアノリサイタル 『エチュード・エルアイ・・・』より 2011年11月16日(水) 浜離宮朝日ホールにて 「ピティナ・ピアノ曲事典」より
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。東京都立武蔵高校卒業後、ヨーロッパへ留学し、パリ国立高等音楽院、ベルリン芸術大学、コモ湖国際ピアノアカデミーにて学ぶ。20歳でアメリカ・クリーヴランド国際ピアノコンクール優勝(日本人初)及びショパン賞を受賞。アメリカ、ヨーロッパ、日本、南アフリカなどでも定期的に演奏する。現在ベルリン在住。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアのピアニスト・音楽教師。ソ連邦時代から半世紀以上にわたって現役で演奏・教育活動に取り組むロシア・ピアノ楽派の最長老であった。
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
アメリカ生まれのピアニスト。彼はキャリアの途中で、右手薬指が動かなくなってしまい演奏ができなくなってしまいました。その後カーティス音楽院等で教鞭を執っています。
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ドイツ・ミュンヘン出身のピアニスト。
父親がドイツ人で母親が日本人のハーフ。
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー出身のピアニスト
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
イタリア出身でドイツを中心に世界中で活躍した作曲家・ピアニスト・指揮者・音楽教師。
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ドイツ生まれのアメリカのピアニスト。
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
スイスやフランスを拠点に活躍した世界的ピアニスト。
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ユダヤ系ロシア人ピアニスト・ピアノ教授。
Lang Lang, Prague 2012.(2012年プラハ~チェコでのライブ演奏より)
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
中国遼寧省瀋陽出身のピアニスト。1999年、17歳のとき突破口が訪れる。ラヴィニア音楽祭のガラ・コンサートで、急病の先輩ピアニストの代理として、チャイコフスキーの《ピアノ協奏曲 第1番》を、見事に演奏した。これがシカゴ・トリビューン紙によって、将来の嘱望される何年かに一人の逸材と評価された。2008年8月8日、北京オリンピックの開会式において、中国の作曲家・葉小綱の協奏曲を演奏した。映画『のだめカンタービレ最終楽章』の野田恵役の上野樹里のピアノ演奏をすべて担当している。
Yundi Li playing piano
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
中国・重慶生まれのピアニスト。2000年、ワルシャワで開かれた第14回ショパン国際ピアノコンクールで、スタニスラフ・ブーニン以来15年ぶりに第1位での優勝を果たし、一躍注目を浴びる。ショパン・コンクールでの優勝は中国人では初。
美しい音色と確かなテクニック、そして深い音楽性を持ち、世界中から将来を期待される若手のホープといわれている。日本の一部のメディアからは「中国のキムタク」ともてはやされた。ショパン・コンクール優勝後も、ドイツで研鑽を積む。、現在は香港の市民権を得て同地に在住。
Video: www.lastwave.de | Alice Sara Ott plays Liszt Etude "La Campanella" (after Paganini). Album released by Deutsche Grammophon www.alice-sara-ott.com There is also an HD version (720p) online, with
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ドイツ・ミュンヘン出身のピアニスト。
父親がドイツ人で母親が日本人のハーフ。
Una muy buena grabaci?n de la campanella. un pianista excepcional que pone todo a la hora de tocar
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアのピアニスト。わずか2歳でピアノを学び始める。のちグネーシン音楽大学に進んで、アンナ・パヴロフナ=カントルに今日まで師事する。10歳でピアノ協奏曲を弾いてデビュー、11歳で初リサイタルを開くなど、幼い頃から神童ぶりを発揮する。現在若手ピアニストの中では一番の人気と実力を誇る。
Arthur rubinstein´s interpretation of Liszt´s etude "La Campanella"
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ポーランド出身のピアニスト。「ショパン弾き」と言われるほどショパンの演奏は自然で気品に満ちている。90歳近くまで現役として演奏を続けていたため、録音が残されている。ショパンのイメージが強いが実は他の作曲家、室内楽での演奏(録音)にも名演が数多く存在する。
2009 Cliburn Competition 2009年クライバーンコンクールライブより
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
東京都豊島区出身のピアニスト。
これまでに、増山真佐子、川上昌裕、川上ゆかり、横山幸雄、田部京子に師事している。
2009年6月7日、アメリカで開催されたヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した(中国人ピアニスト張昊辰と同時優勝)。日本人として初の優勝である。同年7月13日、台東区民栄誉章を受章した。
CZIFFRA - Liszt,Grandes Etudes de Paganini S.141 no.3 La Campanella
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー出身のピアニスト。超絶技巧で名高い。Gyorgy Cziffra とも明記する。ブダペストにてロマの家系に生まれる。5歳のときに、居酒屋やサーカスで民謡を主題とする即興演奏を行なって有名になる。ブダペストのフランツ・リスト音楽院に入学し、エルネー・ドホナーニらに師事。実際のところ生演奏では、シフラの豪快な演奏に酔いしれた聴衆が、演奏の途中でやんやの大喝采を送ることも稀ではなかった。いずれにせよシフラが不世出のヴィルトゥオーソであり、即興演奏の達人であった事実はほとんど疑いようがない。
Simply beautiful
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス系カナダ人のピアニスト。苦労の跡を見せない超絶技巧と洗練された演奏様式によって国際的に有名である。
ライブ映像です。もう少し音質&画質がアップすれば申し分ないクリップですね。若々しく目何っくの鮮やかさが際立つタイプの演奏です。
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ウクライナ生まれのピアニスト。現在、アメリカ合衆国に在住し、世界各地で演奏活動を行っている。夫のアレクセイ・クズネツォフもピアニストで、リシッツァとピアノデュオを演奏する。ベーゼンドルファー社製のピアノを愛用。
ライブ演奏フジ子・へミング氏の演奏は人をひきつける何かがあるようです。
その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。
1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。
リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。
この曲集中もっとも有名な第3曲『ラ・カンパネッラ』(嬰ト短調)は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調の第3楽章を原曲とする。この第3曲に関しては、《大練習曲》の初版である《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》の第3曲とは大きな違いがある。初版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調からの素材が目立つのに対し、《大練習曲》では、第1番の素材はまったく見られない。また、調号が初版の変イ短調から嬰ト短調に変化している。初版に比べ、《大練習曲》のほうが高音域を駆使し、同音反復を効果的に使用したよりきらびやかな音楽になっているのも注目すべきところである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
本名イングリッド・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミング(Ingrid Fuzjko Von Georgii-Hemming)は、日本とヨーロッパで活躍するピアニストである。日本名は大月 フジ(おおつき フジ)。
ロシア系スウェーデン人の画家・建築家のヨスタ・ゲオルギー・ヘミング(Josta Georgii Hemming)と、日本人ピアニストの大月投網子の間にベルリンで生まれる。スウェーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)。俳優の大月ウルフは実弟。