リスト 巡礼の年第3年 3.エステ荘の糸杉にII:哀歌の動画集です。
《巡礼の年 第3年》は、同じ題名を持つ先の3つの曲集とは性格の異なる曲集である。創作年代にも間があり、リストの生涯における、いわゆるローマ時代(1861-69)に作曲が開始されている。リストはこの期間に充実した作曲活動を展開しており、その中でも宗教音楽への傾倒を見せている。本作品集の多くは1877年に作曲されている。それまでの経緯を簡単に述べると、1870年頃より、59歳のリストは季節ごとにヴァイマル、ブタペスト、ローマの3都市を住み分ける生活を送るようになる。1886年にリストが亡くなるまで続くこの生活は多忙を極め、しばらく創作活動が滞っている。ブタペストではハンガリー王立学院(今日のリスト音楽院)の学長を務め、自らも指導にあたっていた。だが、自らの作品が「芸術の否定である」と手ひどい批判を受けるなど、周囲からの理解を得られないことに対する諦めもあり、決して成功ばかりではなかった。1877年、66歳になるリストは精神的に深刻な状況に陥っている。この頃、知人のオルガ・フォン・マイエンドルフ男爵夫人(1838-1926)に宛てた手紙には、「絶望的な悲しみに襲われる」など、生きることへの苦しみが綴られている。
この曲集においては、レチタティーヴォを思わせる単音の長いパッセージや不協和音の使用が目立ち、作品の冒頭において調性が曖昧であることが目立つが、これは晩年のリストの様式を示している。宗教曲が3曲(第1番、4番、7番)あり、その他の作品も哀歌と題されるものがあり、華麗さは影を潜め、強い諦念すら感じられるものとなっている。
第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」 / No.2 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie I"、第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」 / No.3 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie II"。タイトルにある「エステ荘」とは、エステ家出身の枢機卿イッポリト2世によって1550年に着工されたベネディクト派の修道院であった。その後、豪華な別荘と美しい庭園に改築された。豊富な水資源を生かし、「水オルガンの噴水」や「ドラゴンの噴水」など大小500の噴水が存在し、現在もティヴォリ随一の観光地として人気がある。リストはそのエステ荘に1868年よりグスターフ・フォン・ホーエンローエ枢機卿の客人として滞在していた。またタイトルにある「糸杉」は西洋において死や喪を象徴するものとして音楽に限らず、フィンセント・ファン・ゴッホのように絵画等でも多く扱われている。第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」は、重々しい四度の連続から始まり、陰鬱な雰囲気に満ちた作品。第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」も同様に力強いが陰鬱さを持った動機から始まり、途中ハンガリー風の旋律を経て、流麗な旋律へと姿を変える。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ピアニスト
《巡礼の年 第3年》は、同じ題名を持つ先の3つの曲集とは性格の異なる曲集である。創作年代にも間があり、リストの生涯における、いわゆるローマ時代(1861-69)に作曲が開始されている。リストはこの期間に充実した作曲活動を展開しており、その中でも宗教音楽への傾倒を見せている。本作品集の多くは1877年に作曲されている。それまでの経緯を簡単に述べると、1870年頃より、59歳のリストは季節ごとにヴァイマル、ブタペスト、ローマの3都市を住み分ける生活を送るようになる。1886年にリストが亡くなるまで続くこの生活は多忙を極め、しばらく創作活動が滞っている。ブタペストではハンガリー王立学院(今日のリスト音楽院)の学長を務め、自らも指導にあたっていた。だが、自らの作品が「芸術の否定である」と手ひどい批判を受けるなど、周囲からの理解を得られないことに対する諦めもあり、決して成功ばかりではなかった。1877年、66歳になるリストは精神的に深刻な状況に陥っている。この頃、知人のオルガ・フォン・マイエンドルフ男爵夫人(1838-1926)に宛てた手紙には、「絶望的な悲しみに襲われる」など、生きることへの苦しみが綴られている。
この曲集においては、レチタティーヴォを思わせる単音の長いパッセージや不協和音の使用が目立ち、作品の冒頭において調性が曖昧であることが目立つが、これは晩年のリストの様式を示している。宗教曲が3曲(第1番、4番、7番)あり、その他の作品も哀歌と題されるものがあり、華麗さは影を潜め、強い諦念すら感じられるものとなっている。
第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」 / No.2 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie I"、第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」 / No.3 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie II"。タイトルにある「エステ荘」とは、エステ家出身の枢機卿イッポリト2世によって1550年に着工されたベネディクト派の修道院であった。その後、豪華な別荘と美しい庭園に改築された。豊富な水資源を生かし、「水オルガンの噴水」や「ドラゴンの噴水」など大小500の噴水が存在し、現在もティヴォリ随一の観光地として人気がある。リストはそのエステ荘に1868年よりグスターフ・フォン・ホーエンローエ枢機卿の客人として滞在していた。またタイトルにある「糸杉」は西洋において死や喪を象徴するものとして音楽に限らず、フィンセント・ファン・ゴッホのように絵画等でも多く扱われている。第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」は、重々しい四度の連続から始まり、陰鬱な雰囲気に満ちた作品。第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」も同様に力強いが陰鬱さを持った動機から始まり、途中ハンガリー風の旋律を経て、流麗な旋律へと姿を変える。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
旧ソ連出身のロシア人ピアニスト。日本では慣習的に「ラザール」とフランス語風に表記されているが、ロシア語の発音では第一音節に強勢が置かれるため「ラーザリ」が近い。
「私は19世紀の人間であり、ヴィルトゥオーソと呼ばれるタイプの演奏家に属している」と自認していたように、鮮やかな超絶技巧と芝居っ気たっぷりの演奏、濃やかな情緒表現と強靭なタッチが特徴的で、一夜で3つのピアノ協奏曲とソナタ1曲を弾き切ったこともある。
《巡礼の年 第3年》は、同じ題名を持つ先の3つの曲集とは性格の異なる曲集である。創作年代にも間があり、リストの生涯における、いわゆるローマ時代(1861-69)に作曲が開始されている。リストはこの期間に充実した作曲活動を展開しており、その中でも宗教音楽への傾倒を見せている。本作品集の多くは1877年に作曲されている。それまでの経緯を簡単に述べると、1870年頃より、59歳のリストは季節ごとにヴァイマル、ブタペスト、ローマの3都市を住み分ける生活を送るようになる。1886年にリストが亡くなるまで続くこの生活は多忙を極め、しばらく創作活動が滞っている。ブタペストではハンガリー王立学院(今日のリスト音楽院)の学長を務め、自らも指導にあたっていた。だが、自らの作品が「芸術の否定である」と手ひどい批判を受けるなど、周囲からの理解を得られないことに対する諦めもあり、決して成功ばかりではなかった。1877年、66歳になるリストは精神的に深刻な状況に陥っている。この頃、知人のオルガ・フォン・マイエンドルフ男爵夫人(1838-1926)に宛てた手紙には、「絶望的な悲しみに襲われる」など、生きることへの苦しみが綴られている。
この曲集においては、レチタティーヴォを思わせる単音の長いパッセージや不協和音の使用が目立ち、作品の冒頭において調性が曖昧であることが目立つが、これは晩年のリストの様式を示している。宗教曲が3曲(第1番、4番、7番)あり、その他の作品も哀歌と題されるものがあり、華麗さは影を潜め、強い諦念すら感じられるものとなっている。
第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」 / No.2 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie I"、第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」 / No.3 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie II"。タイトルにある「エステ荘」とは、エステ家出身の枢機卿イッポリト2世によって1550年に着工されたベネディクト派の修道院であった。その後、豪華な別荘と美しい庭園に改築された。豊富な水資源を生かし、「水オルガンの噴水」や「ドラゴンの噴水」など大小500の噴水が存在し、現在もティヴォリ随一の観光地として人気がある。リストはそのエステ荘に1868年よりグスターフ・フォン・ホーエンローエ枢機卿の客人として滞在していた。またタイトルにある「糸杉」は西洋において死や喪を象徴するものとして音楽に限らず、フィンセント・ファン・ゴッホのように絵画等でも多く扱われている。第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」は、重々しい四度の連続から始まり、陰鬱な雰囲気に満ちた作品。第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」も同様に力強いが陰鬱さを持った動機から始まり、途中ハンガリー風の旋律を経て、流麗な旋律へと姿を変える。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス在住のイタリア人ピアニスト。ナポリ出身。1949年にパリのロン・ティボー国際コンクールに優勝する。1969年にフランスに帰化し、1970年から1983年までパリ音楽院で教鞭を執った。フランス近代音楽の解釈者ならびに擁護者として国際的に著名であり、数多くの曲を録音している。
《巡礼の年 第3年》は、同じ題名を持つ先の3つの曲集とは性格の異なる曲集である。創作年代にも間があり、リストの生涯における、いわゆるローマ時代(1861-69)に作曲が開始されている。リストはこの期間に充実した作曲活動を展開しており、その中でも宗教音楽への傾倒を見せている。本作品集の多くは1877年に作曲されている。それまでの経緯を簡単に述べると、1870年頃より、59歳のリストは季節ごとにヴァイマル、ブタペスト、ローマの3都市を住み分ける生活を送るようになる。1886年にリストが亡くなるまで続くこの生活は多忙を極め、しばらく創作活動が滞っている。ブタペストではハンガリー王立学院(今日のリスト音楽院)の学長を務め、自らも指導にあたっていた。だが、自らの作品が「芸術の否定である」と手ひどい批判を受けるなど、周囲からの理解を得られないことに対する諦めもあり、決して成功ばかりではなかった。1877年、66歳になるリストは精神的に深刻な状況に陥っている。この頃、知人のオルガ・フォン・マイエンドルフ男爵夫人(1838-1926)に宛てた手紙には、「絶望的な悲しみに襲われる」など、生きることへの苦しみが綴られている。
この曲集においては、レチタティーヴォを思わせる単音の長いパッセージや不協和音の使用が目立ち、作品の冒頭において調性が曖昧であることが目立つが、これは晩年のリストの様式を示している。宗教曲が3曲(第1番、4番、7番)あり、その他の作品も哀歌と題されるものがあり、華麗さは影を潜め、強い諦念すら感じられるものとなっている。
第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」 / No.2 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie I"、第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」 / No.3 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie II"。タイトルにある「エステ荘」とは、エステ家出身の枢機卿イッポリト2世によって1550年に着工されたベネディクト派の修道院であった。その後、豪華な別荘と美しい庭園に改築された。豊富な水資源を生かし、「水オルガンの噴水」や「ドラゴンの噴水」など大小500の噴水が存在し、現在もティヴォリ随一の観光地として人気がある。リストはそのエステ荘に1868年よりグスターフ・フォン・ホーエンローエ枢機卿の客人として滞在していた。またタイトルにある「糸杉」は西洋において死や喪を象徴するものとして音楽に限らず、フィンセント・ファン・ゴッホのように絵画等でも多く扱われている。第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」は、重々しい四度の連続から始まり、陰鬱な雰囲気に満ちた作品。第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」も同様に力強いが陰鬱さを持った動機から始まり、途中ハンガリー風の旋律を経て、流麗な旋律へと姿を変える。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
イギリス出身のピアニスト、作曲家、作家。
《巡礼の年 第3年》は、同じ題名を持つ先の3つの曲集とは性格の異なる曲集である。創作年代にも間があり、リストの生涯における、いわゆるローマ時代(1861-69)に作曲が開始されている。リストはこの期間に充実した作曲活動を展開しており、その中でも宗教音楽への傾倒を見せている。本作品集の多くは1877年に作曲されている。それまでの経緯を簡単に述べると、1870年頃より、59歳のリストは季節ごとにヴァイマル、ブタペスト、ローマの3都市を住み分ける生活を送るようになる。1886年にリストが亡くなるまで続くこの生活は多忙を極め、しばらく創作活動が滞っている。ブタペストではハンガリー王立学院(今日のリスト音楽院)の学長を務め、自らも指導にあたっていた。だが、自らの作品が「芸術の否定である」と手ひどい批判を受けるなど、周囲からの理解を得られないことに対する諦めもあり、決して成功ばかりではなかった。1877年、66歳になるリストは精神的に深刻な状況に陥っている。この頃、知人のオルガ・フォン・マイエンドルフ男爵夫人(1838-1926)に宛てた手紙には、「絶望的な悲しみに襲われる」など、生きることへの苦しみが綴られている。
この曲集においては、レチタティーヴォを思わせる単音の長いパッセージや不協和音の使用が目立ち、作品の冒頭において調性が曖昧であることが目立つが、これは晩年のリストの様式を示している。宗教曲が3曲(第1番、4番、7番)あり、その他の作品も哀歌と題されるものがあり、華麗さは影を潜め、強い諦念すら感じられるものとなっている。
第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」 / No.2 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie I"、第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」 / No.3 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie II"。タイトルにある「エステ荘」とは、エステ家出身の枢機卿イッポリト2世によって1550年に着工されたベネディクト派の修道院であった。その後、豪華な別荘と美しい庭園に改築された。豊富な水資源を生かし、「水オルガンの噴水」や「ドラゴンの噴水」など大小500の噴水が存在し、現在もティヴォリ随一の観光地として人気がある。リストはそのエステ荘に1868年よりグスターフ・フォン・ホーエンローエ枢機卿の客人として滞在していた。またタイトルにある「糸杉」は西洋において死や喪を象徴するものとして音楽に限らず、フィンセント・ファン・ゴッホのように絵画等でも多く扱われている。第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」は、重々しい四度の連続から始まり、陰鬱な雰囲気に満ちた作品。第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」も同様に力強いが陰鬱さを持った動機から始まり、途中ハンガリー風の旋律を経て、流麗な旋律へと姿を変える。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー出身のピアニスト。超絶技巧で名高い。Gyorgy Cziffra とも明記する。ブダペストにてロマの家系に生まれる。5歳のときに、居酒屋やサーカスで民謡を主題とする即興演奏を行なって有名になる。ブダペストのフランツ・リスト音楽院に入学し、エルネー・ドホナーニらに師事。実際のところ生演奏では、シフラの豪快な演奏に酔いしれた聴衆が、演奏の途中でやんやの大喝采を送ることも稀ではなかった。いずれにせよシフラが不世出のヴィルトゥオーソであり、即興演奏の達人であった事実はほとんど疑いようがない。
《巡礼の年 第3年》は、同じ題名を持つ先の3つの曲集とは性格の異なる曲集である。創作年代にも間があり、リストの生涯における、いわゆるローマ時代(1861-69)に作曲が開始されている。リストはこの期間に充実した作曲活動を展開しており、その中でも宗教音楽への傾倒を見せている。本作品集の多くは1877年に作曲されている。それまでの経緯を簡単に述べると、1870年頃より、59歳のリストは季節ごとにヴァイマル、ブタペスト、ローマの3都市を住み分ける生活を送るようになる。1886年にリストが亡くなるまで続くこの生活は多忙を極め、しばらく創作活動が滞っている。ブタペストではハンガリー王立学院(今日のリスト音楽院)の学長を務め、自らも指導にあたっていた。だが、自らの作品が「芸術の否定である」と手ひどい批判を受けるなど、周囲からの理解を得られないことに対する諦めもあり、決して成功ばかりではなかった。1877年、66歳になるリストは精神的に深刻な状況に陥っている。この頃、知人のオルガ・フォン・マイエンドルフ男爵夫人(1838-1926)に宛てた手紙には、「絶望的な悲しみに襲われる」など、生きることへの苦しみが綴られている。
この曲集においては、レチタティーヴォを思わせる単音の長いパッセージや不協和音の使用が目立ち、作品の冒頭において調性が曖昧であることが目立つが、これは晩年のリストの様式を示している。宗教曲が3曲(第1番、4番、7番)あり、その他の作品も哀歌と題されるものがあり、華麗さは影を潜め、強い諦念すら感じられるものとなっている。
第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」 / No.2 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie I"、第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」 / No.3 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie II"。タイトルにある「エステ荘」とは、エステ家出身の枢機卿イッポリト2世によって1550年に着工されたベネディクト派の修道院であった。その後、豪華な別荘と美しい庭園に改築された。豊富な水資源を生かし、「水オルガンの噴水」や「ドラゴンの噴水」など大小500の噴水が存在し、現在もティヴォリ随一の観光地として人気がある。リストはそのエステ荘に1868年よりグスターフ・フォン・ホーエンローエ枢機卿の客人として滞在していた。またタイトルにある「糸杉」は西洋において死や喪を象徴するものとして音楽に限らず、フィンセント・ファン・ゴッホのように絵画等でも多く扱われている。第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」は、重々しい四度の連続から始まり、陰鬱な雰囲気に満ちた作品。第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」も同様に力強いが陰鬱さを持った動機から始まり、途中ハンガリー風の旋律を経て、流麗な旋律へと姿を変える。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリーのブダペスト出身のピアニスト・指揮者・作曲家。「ハンガリーの三天王」などと呼ばれている。ピアニストとしてレパートリーは広く、中でもショパン、リスト、ドビュッシー、ラヴェル、バルトークを得意としており、音楽家としてとりわけラフマニノフには格別の思い入れを寄せている。ラフマニノフの歌曲「ヴォカリーズ」のピアノ版への編曲は極めて有名である。
近年ではしばしば指揮者として、とりわけブダペスト祝祭管弦楽団やハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団と共演しており、19世紀末のロシアやウィーンの音楽を中心に録音を進めていた。