リスト 巡礼の年2年 全曲 動画集 | Mボックス

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リスト 巡礼の年2年 全曲 動画集

リスト 巡礼の年第2年イタリア 全曲の動画集です。

リスト 巡礼の年 第2年 イタリア S.161

リスト 巡礼の年 第2年:イタリア S.161

LISZT Années de pèlerinage Deuxième année: Italie S.161

リストの巡礼の年第2年イタリア 全7曲です。
《巡礼の年》は第1年、第2年、第2年補巻、第3年の4集からなるピアノ独奏曲集です。
第2年はマリー・ダグー伯爵夫人とリストが二人で滞在したイタリアでの印象をもとに作曲されています。
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アルバム収録曲一覧

1. 巡礼の年 第2年 「イタリア」 全曲 / リスト,フランツ / ゲキチ,ケマル

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楽曲解説 - 巡礼の年 第2年 「イタリア」 全曲

《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。

第1番「婚礼」 / "Sposalizio"。ルネサンスの三大巨匠の一人、画家ラファエロによる、聖母マリアと聖ヨゼフの婚礼の場面を描いた『マリアの婚礼』にインスピレーションを受けて作曲された宗教的な作品で、明るく清澄な響きを特徴とする。

第2番「物思いに沈む人」 / "Il pensieroso"。同じくルネサンスの三大巨匠の一人、彫刻家ミケランジェロによって刻まれたフィレンツェにあるロレンツォ・デ・メディチの墓の彫像よりインスピレーションを受けている。第1番の明るさから一転、重々しく静寂さを帯びた曲調であり、同音反復によってそれが一層強調されている。なお、本作品は「死」と関連づけられている。

第3番「サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ」 / "Canzonetta del Salvator Rosa"。本作品のみ、約10年後に作曲された。カンツォネッタとは16世紀後半に流行した、軽い気分の小歌曲のことであり、第2番と打って変わって、非常に明るい曲である。題にあるサルヴァトール・ローザは17世紀のイタリアの画家、彫刻家、詩人。カンツォネッタの歌詞は「私のいる場所は変わるが、情熱は変わらない」という内容であるが、リストが載せた詩は実はボノンチーニによるもの。この歌詞の旋律は曲中様々な声部に現れる。

第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
第7番 「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」 / "Apres une lecture du Dance-Fantasia quasi sonata"。この曲集の最後を飾る第7番は、先の6曲に比べてはるかに規模の大きい作品である。圧倒的な迫力が魅力で、演奏会で取り上げられることも非常に多い名曲の一つ。題にあるように、ダンテ(1265-1321)の叙事詩『神曲』を読み、そこからインスピレーションを得て創作された。当初は二部構成《神曲への序説》の曲名で二部構成の作品で、1839年には演奏したという記録もある。何度かの改訂を経て、1849年に完成した。ダンテの『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部から構成されている。本曲の冒頭では地獄の世界への幕開けのように、中世の多声音楽より「音楽の悪魔」と呼ばれる増4度音程の下行が、繰り返しあらわれる。増4度は1オクターヴをちょうど二等分することから忌み嫌われてきたが、リストだけでなく多くの作曲家が、悪魔や死など不吉なものを象徴する手段として用いている。激しい苦悩や葛藤の合間に美しく穏やかな旋律が聞こえてくる。最後は輝かしく締めくくられる。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - ゲキチ,ケマル

クロアチア出身のピアニスト。トレードマークのポニーテールも名高い。自由奔放な演奏と個性的な解釈により聴衆を圧倒し多くのコンクールでも話題になった。コンクールの時に収録された音源をもとにドイツと日本でCDを発表して好調な売上げを伸ばし国際的な演奏活動につながった。

2. 巡礼の年 第2年 「イタリア」 全曲 / リスト,フランツ / チッコリーニ,アルド

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楽曲解説 - 巡礼の年 第2年 「イタリア」 全曲

《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。

第1番「婚礼」 / "Sposalizio"。ルネサンスの三大巨匠の一人、画家ラファエロによる、聖母マリアと聖ヨゼフの婚礼の場面を描いた『マリアの婚礼』にインスピレーションを受けて作曲された宗教的な作品で、明るく清澄な響きを特徴とする。

第2番「物思いに沈む人」 / "Il pensieroso"。同じくルネサンスの三大巨匠の一人、彫刻家ミケランジェロによって刻まれたフィレンツェにあるロレンツォ・デ・メディチの墓の彫像よりインスピレーションを受けている。第1番の明るさから一転、重々しく静寂さを帯びた曲調であり、同音反復によってそれが一層強調されている。なお、本作品は「死」と関連づけられている。

第3番「サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ」 / "Canzonetta del Salvator Rosa"。本作品のみ、約10年後に作曲された。カンツォネッタとは16世紀後半に流行した、軽い気分の小歌曲のことであり、第2番と打って変わって、非常に明るい曲である。題にあるサルヴァトール・ローザは17世紀のイタリアの画家、彫刻家、詩人。カンツォネッタの歌詞は「私のいる場所は変わるが、情熱は変わらない」という内容であるが、リストが載せた詩は実はボノンチーニによるもの。この歌詞の旋律は曲中様々な声部に現れる。

第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
第7番 「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」 / "Apres une lecture du Dance-Fantasia quasi sonata"。この曲集の最後を飾る第7番は、先の6曲に比べてはるかに規模の大きい作品である。圧倒的な迫力が魅力で、演奏会で取り上げられることも非常に多い名曲の一つ。題にあるように、ダンテ(1265-1321)の叙事詩『神曲』を読み、そこからインスピレーションを得て創作された。当初は二部構成《神曲への序説》の曲名で二部構成の作品で、1839年には演奏したという記録もある。何度かの改訂を経て、1849年に完成した。ダンテの『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部から構成されている。本曲の冒頭では地獄の世界への幕開けのように、中世の多声音楽より「音楽の悪魔」と呼ばれる増4度音程の下行が、繰り返しあらわれる。増4度は1オクターヴをちょうど二等分することから忌み嫌われてきたが、リストだけでなく多くの作曲家が、悪魔や死など不吉なものを象徴する手段として用いている。激しい苦悩や葛藤の合間に美しく穏やかな旋律が聞こえてくる。最後は輝かしく締めくくられる。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - チッコリーニ,アルド

フランス在住のイタリア人ピアニスト。ナポリ出身。1949年にパリのロン・ティボー国際コンクールに優勝する。1969年にフランスに帰化し、1970年から1983年までパリ音楽院で教鞭を執った。フランス近代音楽の解釈者ならびに擁護者として国際的に著名であり、数多くの曲を録音している。