リスト 巡礼の年第2年イタリア 7.ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲の動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第7番 「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」 / "Apres une lecture du Dance-Fantasia quasi sonata"。この曲集の最後を飾る第7番は、先の6曲に比べてはるかに規模の大きい作品である。圧倒的な迫力が魅力で、演奏会で取り上げられることも非常に多い名曲の一つ。題にあるように、ダンテ(1265-1321)の叙事詩『神曲』を読み、そこからインスピレーションを得て創作された。当初は二部構成《神曲への序説》の曲名で二部構成の作品で、1839年には演奏したという記録もある。何度かの改訂を経て、1849年に完成した。ダンテの『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部から構成されている。本曲の冒頭では地獄の世界への幕開けのように、中世の多声音楽より「音楽の悪魔」と呼ばれる増4度音程の下行が、繰り返しあらわれる。増4度は1オクターヴをちょうど二等分することから忌み嫌われてきたが、リストだけでなく多くの作曲家が、悪魔や死など不吉なものを象徴する手段として用いている。激しい苦悩や葛藤の合間に美しく穏やかな旋律が聞こえてくる。最後は輝かしく締めくくられる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
韓国のピアニスト。2015年第17回ショパン国際ピアノコンクール第1位。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第7番 「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」 / "Apres une lecture du Dance-Fantasia quasi sonata"。この曲集の最後を飾る第7番は、先の6曲に比べてはるかに規模の大きい作品である。圧倒的な迫力が魅力で、演奏会で取り上げられることも非常に多い名曲の一つ。題にあるように、ダンテ(1265-1321)の叙事詩『神曲』を読み、そこからインスピレーションを得て創作された。当初は二部構成《神曲への序説》の曲名で二部構成の作品で、1839年には演奏したという記録もある。何度かの改訂を経て、1849年に完成した。ダンテの『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部から構成されている。本曲の冒頭では地獄の世界への幕開けのように、中世の多声音楽より「音楽の悪魔」と呼ばれる増4度音程の下行が、繰り返しあらわれる。増4度は1オクターヴをちょうど二等分することから忌み嫌われてきたが、リストだけでなく多くの作曲家が、悪魔や死など不吉なものを象徴する手段として用いている。激しい苦悩や葛藤の合間に美しく穏やかな旋律が聞こえてくる。最後は輝かしく締めくくられる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。2011年度ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリ。2007年、第61回全日本学生音楽コンクール全国大会中学校の部第2位。2009年、アジア国際音楽コンクール最優秀賞及びピアノ部門高校生の部第1位。2009年、第4回福田靖子賞選考会第1位(福田靖子賞)。2011年、第9回フランツ・リスト国際ピアノコンクール(オランダ)セミファイナリスト。2011年、第35回ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリ。現在、東京藝術大学音楽学部器楽科に在学。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第7番 「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」 / "Apres une lecture du Dance-Fantasia quasi sonata"。この曲集の最後を飾る第7番は、先の6曲に比べてはるかに規模の大きい作品である。圧倒的な迫力が魅力で、演奏会で取り上げられることも非常に多い名曲の一つ。題にあるように、ダンテ(1265-1321)の叙事詩『神曲』を読み、そこからインスピレーションを得て創作された。当初は二部構成《神曲への序説》の曲名で二部構成の作品で、1839年には演奏したという記録もある。何度かの改訂を経て、1849年に完成した。ダンテの『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部から構成されている。本曲の冒頭では地獄の世界への幕開けのように、中世の多声音楽より「音楽の悪魔」と呼ばれる増4度音程の下行が、繰り返しあらわれる。増4度は1オクターヴをちょうど二等分することから忌み嫌われてきたが、リストだけでなく多くの作曲家が、悪魔や死など不吉なものを象徴する手段として用いている。激しい苦悩や葛藤の合間に美しく穏やかな旋律が聞こえてくる。最後は輝かしく締めくくられる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
クロアチア出身のピアニスト。トレードマークのポニーテールも名高い。自由奔放な演奏と個性的な解釈により聴衆を圧倒し多くのコンクールでも話題になった。コンクールの時に収録された音源をもとにドイツと日本でCDを発表して好調な売上げを伸ばし国際的な演奏活動につながった。
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第7番 「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」 / "Apres une lecture du Dance-Fantasia quasi sonata"。この曲集の最後を飾る第7番は、先の6曲に比べてはるかに規模の大きい作品である。圧倒的な迫力が魅力で、演奏会で取り上げられることも非常に多い名曲の一つ。題にあるように、ダンテ(1265-1321)の叙事詩『神曲』を読み、そこからインスピレーションを得て創作された。当初は二部構成《神曲への序説》の曲名で二部構成の作品で、1839年には演奏したという記録もある。何度かの改訂を経て、1849年に完成した。ダンテの『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部から構成されている。本曲の冒頭では地獄の世界への幕開けのように、中世の多声音楽より「音楽の悪魔」と呼ばれる増4度音程の下行が、繰り返しあらわれる。増4度は1オクターヴをちょうど二等分することから忌み嫌われてきたが、リストだけでなく多くの作曲家が、悪魔や死など不吉なものを象徴する手段として用いている。激しい苦悩や葛藤の合間に美しく穏やかな旋律が聞こえてくる。最後は輝かしく締めくくられる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス在住のイタリア人ピアニスト。ナポリ出身。1949年にパリのロン・ティボー国際コンクールに優勝する。1969年にフランスに帰化し、1970年から1983年までパリ音楽院で教鞭を執った。フランス近代音楽の解釈者ならびに擁護者として国際的に著名であり、数多くの曲を録音している。
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第7番 「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」 / "Apres une lecture du Dance-Fantasia quasi sonata"。この曲集の最後を飾る第7番は、先の6曲に比べてはるかに規模の大きい作品である。圧倒的な迫力が魅力で、演奏会で取り上げられることも非常に多い名曲の一つ。題にあるように、ダンテ(1265-1321)の叙事詩『神曲』を読み、そこからインスピレーションを得て創作された。当初は二部構成《神曲への序説》の曲名で二部構成の作品で、1839年には演奏したという記録もある。何度かの改訂を経て、1849年に完成した。ダンテの『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部から構成されている。本曲の冒頭では地獄の世界への幕開けのように、中世の多声音楽より「音楽の悪魔」と呼ばれる増4度音程の下行が、繰り返しあらわれる。増4度は1オクターヴをちょうど二等分することから忌み嫌われてきたが、リストだけでなく多くの作曲家が、悪魔や死など不吉なものを象徴する手段として用いている。激しい苦悩や葛藤の合間に美しく穏やかな旋律が聞こえてくる。最後は輝かしく締めくくられる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシア出身のピアニスト。グネーシン音楽学校(モスクワ)にてエレーナ・イワノヴァに師事。その後、チューリヒ音楽大学に留学し、卒業後に、師である同大学のコンスタンティン・シチェルバコフの助手をつとめた。
2006年、ジュネーヴ国際音楽コンクール、一位なしの第二位。2007年、パデレフスキー国際ピアノコンクール第二位。2008年から、コモ湖国際ピアノアカデミーで学ぶ。
2010年、ショパン国際ピアノコンクール第一位。合わせて、最優秀ソナタ演奏賞も受賞。マルタ・アルゲリッチ以来、45年ぶりの女性ピアニストの優勝者として注目を浴びた。同年の12月に来日し、NHK交響楽団と共演。
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《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第7番 「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」 / "Apres une lecture du Dance-Fantasia quasi sonata"。この曲集の最後を飾る第7番は、先の6曲に比べてはるかに規模の大きい作品である。圧倒的な迫力が魅力で、演奏会で取り上げられることも非常に多い名曲の一つ。題にあるように、ダンテ(1265-1321)の叙事詩『神曲』を読み、そこからインスピレーションを得て創作された。当初は二部構成《神曲への序説》の曲名で二部構成の作品で、1839年には演奏したという記録もある。何度かの改訂を経て、1849年に完成した。ダンテの『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部から構成されている。本曲の冒頭では地獄の世界への幕開けのように、中世の多声音楽より「音楽の悪魔」と呼ばれる増4度音程の下行が、繰り返しあらわれる。増4度は1オクターヴをちょうど二等分することから忌み嫌われてきたが、リストだけでなく多くの作曲家が、悪魔や死など不吉なものを象徴する手段として用いている。激しい苦悩や葛藤の合間に美しく穏やかな旋律が聞こえてくる。最後は輝かしく締めくくられる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
旧ソ連出身のロシア人ピアニスト。日本では慣習的に「ラザール」とフランス語風に表記されているが、ロシア語の発音では第一音節に強勢が置かれるため「ラーザリ」が近い。
「私は19世紀の人間であり、ヴィルトゥオーソと呼ばれるタイプの演奏家に属している」と自認していたように、鮮やかな超絶技巧と芝居っ気たっぷりの演奏、濃やかな情緒表現と強靭なタッチが特徴的で、一夜で3つのピアノ協奏曲とソナタ1曲を弾き切ったこともある。
Recorded in Switzerland - Lugano at RSI Auditorium Stelio Molo
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第7番 「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」 / "Apres une lecture du Dance-Fantasia quasi sonata"。この曲集の最後を飾る第7番は、先の6曲に比べてはるかに規模の大きい作品である。圧倒的な迫力が魅力で、演奏会で取り上げられることも非常に多い名曲の一つ。題にあるように、ダンテ(1265-1321)の叙事詩『神曲』を読み、そこからインスピレーションを得て創作された。当初は二部構成《神曲への序説》の曲名で二部構成の作品で、1839年には演奏したという記録もある。何度かの改訂を経て、1849年に完成した。ダンテの『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部から構成されている。本曲の冒頭では地獄の世界への幕開けのように、中世の多声音楽より「音楽の悪魔」と呼ばれる増4度音程の下行が、繰り返しあらわれる。増4度は1オクターヴをちょうど二等分することから忌み嫌われてきたが、リストだけでなく多くの作曲家が、悪魔や死など不吉なものを象徴する手段として用いている。激しい苦悩や葛藤の合間に美しく穏やかな旋律が聞こえてくる。最後は輝かしく締めくくられる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
Ann?es de P?lerinage II. 7. Apr?s une Lecture de Dante: Fantasia quasi Sonata. (After a reading by Dante: A fantasy, almost a sonata.) Liszt's great piano solo composed to depict the afterlife, accord
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第7番 「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」 / "Apres une lecture du Dance-Fantasia quasi sonata"。この曲集の最後を飾る第7番は、先の6曲に比べてはるかに規模の大きい作品である。圧倒的な迫力が魅力で、演奏会で取り上げられることも非常に多い名曲の一つ。題にあるように、ダンテ(1265-1321)の叙事詩『神曲』を読み、そこからインスピレーションを得て創作された。当初は二部構成《神曲への序説》の曲名で二部構成の作品で、1839年には演奏したという記録もある。何度かの改訂を経て、1849年に完成した。ダンテの『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部から構成されている。本曲の冒頭では地獄の世界への幕開けのように、中世の多声音楽より「音楽の悪魔」と呼ばれる増4度音程の下行が、繰り返しあらわれる。増4度は1オクターヴをちょうど二等分することから忌み嫌われてきたが、リストだけでなく多くの作曲家が、悪魔や死など不吉なものを象徴する手段として用いている。激しい苦悩や葛藤の合間に美しく穏やかな旋律が聞こえてくる。最後は輝かしく締めくくられる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
トルコ人のピアニスト。イスタンブル出身。
For NewFranzFerencLiszt Franz Liszt's poetic Dante Sonata, performed by Lazar Berman.
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第7番 「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」 / "Apres une lecture du Dance-Fantasia quasi sonata"。この曲集の最後を飾る第7番は、先の6曲に比べてはるかに規模の大きい作品である。圧倒的な迫力が魅力で、演奏会で取り上げられることも非常に多い名曲の一つ。題にあるように、ダンテ(1265-1321)の叙事詩『神曲』を読み、そこからインスピレーションを得て創作された。当初は二部構成《神曲への序説》の曲名で二部構成の作品で、1839年には演奏したという記録もある。何度かの改訂を経て、1849年に完成した。ダンテの『神曲』は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部から構成されている。本曲の冒頭では地獄の世界への幕開けのように、中世の多声音楽より「音楽の悪魔」と呼ばれる増4度音程の下行が、繰り返しあらわれる。増4度は1オクターヴをちょうど二等分することから忌み嫌われてきたが、リストだけでなく多くの作曲家が、悪魔や死など不吉なものを象徴する手段として用いている。激しい苦悩や葛藤の合間に美しく穏やかな旋律が聞こえてくる。最後は輝かしく締めくくられる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
旧ソ連出身のロシア人ピアニスト。日本では慣習的に「ラザール」とフランス語風に表記されているが、ロシア語の発音では第一音節に強勢が置かれるため「ラーザリ」が近い。
「私は19世紀の人間であり、ヴィルトゥオーソと呼ばれるタイプの演奏家に属している」と自認していたように、鮮やかな超絶技巧と芝居っ気たっぷりの演奏、濃やかな情緒表現と強靭なタッチが特徴的で、一夜で3つのピアノ協奏曲とソナタ1曲を弾き切ったこともある。