リスト 巡礼の年第2年イタリア 5.ペトラルカのソネット第104番の動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。東京外国語大学卒業。桐朋学園大学指揮教室、ヤルヴィ・アカデミー(エストニア)にて指揮の研鑽を積む。
現在、ピアノ、指揮、作曲、執筆の各方面で活躍。ピアニストとして、ソロ、アンサンブルの両面で幅広く活動するほか、監訳書にチャールズ・ローゼン著「ベートーヴェンを“読む”―32のピアノソナタ」(道出版)、校訂楽譜に「ヤナーチェク:ピアノ作品集1・2」「シューベルト=リスト:12の歌、水車屋の歌」(ヤマハミュージックメディア)がある。 谷口未央監督による映画「仇討ち」、「矢田川のバッハ」の作曲、音楽監督を務める。
(社)全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)正会員。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
第八回公開録音コンサート ピアノ : 泊 真美子 場所 : 東音ホール(東京・巣鴨) 日時 : 2010年12月5日(土) 「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。東京藝術大学音楽学部器楽科(ピアノ科)卒業。現在は、国内外全国各地をソロリサイタルやオーケストラとの共演、ゲスト出演等、コンサートピアニストとして活動し、研鑽を積んでいる。2003年第72 回日本音楽コンクール第1位、1997年第21回PTNAピアノコンペティションG級全国大会第1位、2001 年第25回PTNAピアノコンペティション特級全国大会第2位、2001年第11回フランツ・リスト国際ピアノコンクールセミファイナリスト、その他数々のコンクールで優勝。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「現代最後のロマン派」と称される、アメリカで最も有名なピアニストの一人。世界各国の著名コンサートホールにおける演奏経験を持つ。ブゾーニ国際ピアノコンクールで優勝後、20代前半の若さで世界を舞台に活躍を始める。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。国内外で数多くのリサイタル、室内楽やオーケストラとの共演を行う。
2004年ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリ受賞、2010年第8回東京音楽コンクール第2位。 また、2011年第9回フランツ・リスト国際ピアノコンクールでは審査員満場一致で第1位に輝き、併せて聴衆賞受賞し一躍注目を集めた。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
クロアチア出身のピアニスト。トレードマークのポニーテールも名高い。自由奔放な演奏と個性的な解釈により聴衆を圧倒し多くのコンクールでも話題になった。コンクールの時に収録された音源をもとにドイツと日本でCDを発表して好調な売上げを伸ばし国際的な演奏活動につながった。
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス在住のイタリア人ピアニスト。ナポリ出身。1949年にパリのロン・ティボー国際コンクールに優勝する。1969年にフランスに帰化し、1970年から1983年までパリ音楽院で教鞭を執った。フランス近代音楽の解釈者ならびに擁護者として国際的に著名であり、数多くの曲を録音している。
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
Played By Brendel!
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
チェコ出身でクロアチアで育った、オーストリアのピアニスト。1970年フィリップスと専属契約を結び、リリースしたレコードで、その名声を決定づける。 華麗さや派手さはないものの、中庸を行く知的で正統的な解釈で多くの音楽ファンを惹きつけている。ドイツ・オーストリア音楽の王道とも言うべき作曲家の作品を得意としている。ソロ以外では室内楽や歌曲の伴奏でも多くの名演奏を生み出している。2008年12月のコンサートをもって引退した
The eminent pianist,Claudio Arrau, plays Liszt's Sonetto 104 del Petrarca. Arrau studied with the Liszt pupil Martin Krause and won the Liszt prize twice at age 16 and 17. Edwin Fischer was also a pup
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南米チリ出身でアメリカを中心に活動したピアニスト。20世紀を代表するピアノの巨匠として知られた。
1941年、カーネギー・ホールにデビューし、翌年より本拠をアメリカに移す。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍(日本には1965年初来日)。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。
Anna Fedorova, piano Official site: www.annafedorova.com
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
2008年にアンナフェドロワは英才ルイセンコ音楽大学(キエフ、ウクライナ教授に師事。ボリスフェドロフのクラス)を卒業。
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
カナダ出身のピアニスト。
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
キューバ生まれのピアニスト・指揮者。一時フランス語読みの「ボレ」と表記されていたが、当人の出身地キューバの公用語であるスペイン語にもとづいて「ボレット」に表記が統一された。1939年から1942年まで母校カーティス音楽学校で教鞭を執るが、1942年に米軍に入隊し、GHQの一員として日本に派遣された。日本滞在中に、ギルバート&サリヴァンのオペレッタ『ミカド』の日本初演を指揮した。
ピアニストとして名声に恵まれるようになったのは、ようやく1970年代初頭になってからであり、カーネギーホールでの演奏によって評価を確かなものにした。ボレットは、ある批評家が述べたように、「長年の無視に傷ついていた」ものの、まさにあらん限りの能力を発揮した。その驚異的な演奏は、近年のフィリップス・レコードにおける「20世紀の偉大なるピアニスト」シリーズのCDでも確認することができる。
1986年モスクワライブのクリップです。 この時、ホロヴィッツ数十年ぶりに故郷に戻り演奏会を開きました。テクニック的な彼の全盛期は過ぎてからの演奏ですが、味があり、しかも情熱(パッション)があり名演です。 2分30秒位からの低音は彼の全盛期を彷彿とさせます。
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ウクライナ生まれのアメリカのピアニスト。最後のヴィルティオーゾ(巨匠)スタイルのピアニストと言われている。ロシアで生まれ、その後亡命して後半生はアメリカを中心に演奏家として活躍した。
チャールズ皇太子が、ダイアナが第一子を生んだ時に演奏に来てほしいとホロヴィッツに頼んだ時は、「コンコルドでロンドンに行けるなら演奏してもよい」と発言し、本当にコンコルドでに乗って出かけた(もちろん、イレギュラーで)、という今となっては伝説化しているエピソードもある。
途中、演奏を中断していた時期もありましたが、「復活」のリサイタルは、歴史的なカムバックとしてライブが残されています。
1986年モスクワライブの演奏です。繊細かつ大胆。泣かせる演奏であり、しかも圧倒されるほどのエネルギーも持っている演奏。心の奥に飛び込んでくる演奏です。、
《巡礼の年 第2年イタリア》は、1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とリストがふたりで滞在したイタリアでの印象をもとにしている。リストはかの地で、ダンテの叙事詩『神曲』などの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など様々な芸術作品に触れた。その刺激を受けて作られたことは、全7曲の題名からも明らかである。作曲は1839年までに第3曲目を除いて一段落していたと考えられているが、1858年になってようやく《巡礼の年報 第2年イタリア》としてまとめて出版された。
第4番「ペトラルカのソネット 第47番」 / "Sonetto 47 del Petrarca"、第5番「ペトラルカのソネット 第104番」 / "Sonetto 104 del Petrarca"、第6番「ペトラルカのソネット 第123番」 / "Sonetto 123 del Petrarca"。第4番から第6番は、イタリア・ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)の代表作である『カンツォニエーレ』より。『カンツォニエーレ』はペトラルカがラウラへの愛を歌ったもの。また、ソネットとはイタリアで生まれた14行の定型詩を言い、「小さな歌」を意味しており、ペトラルカとダンテによって完成された。リストは第47番、第104番、第123番を採り上げて作曲した。ほぼ同時期に歌曲としても作曲されている。第4番「ペトラルカのソネット 第47番」の詩の大意は恋にとらわれた心情を歌ったもの。その内容を受け、甘美な雰囲気を持つ美しい曲となっている。第5番「ペトラルカのソネット 第104番」の詩は恋に落ちた喜びと苦しみの二面を歌うもの。先の曲よりドラマティックであり、単独で演奏される機会も多い。第6番「ペトラルカのソネット 第123番」の詩は、地上で天使の姿を見たというくだりから始まり、恋の甘美さを歌ったもの。穏やかで優美な曲調は、続く「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」の激しさと対照的である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ウクライナ生まれのアメリカのピアニスト。最後のヴィルティオーゾ(巨匠)スタイルのピアニストと言われている。ロシアで生まれ、その後亡命して後半生はアメリカを中心に演奏家として活躍した。
チャールズ皇太子が、ダイアナが第一子を生んだ時に演奏に来てほしいとホロヴィッツに頼んだ時は、「コンコルドでロンドンに行けるなら演奏してもよい」と発言し、本当にコンコルドでに乗って出かけた(もちろん、イレギュラーで)、という今となっては伝説化しているエピソードもある。
途中、演奏を中断していた時期もありましたが、「復活」のリサイタルは、歴史的なカムバックとしてライブが残されています。