リスト 巡礼の年1年 全曲 動画集 | Mボックス

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リスト 巡礼の年1年 全曲 動画集

リスト 巡礼の年第1年スイス 全曲の動画集です。

リスト 巡礼の年 第1年 スイス S.160

リスト 巡礼の年 第1年:スイス S.160

LISZT Années de pèlerinage Première année: Suisse S.160

リストの巡礼の年第1年スイス 全9曲です。
《巡礼の年》は第1年、第2年、第2年補巻、第3年の4集からなるピアノ独奏曲集です。
第1年はマリー・ダグー伯爵夫人と二人で訪れたスイスでの印象をもとに作曲されています。
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アルバム収録曲一覧

1. 巡礼の年 第1年 「スイス」 全曲 / リスト,フランツ / チッコリーニ,アルド

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楽曲解説 - 巡礼の年 第1年 「スイス」 全曲

《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。

《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。

《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。

第1番「ウィリアム・テルの聖堂」 / "La chapelle de Guillaume Tell"。スイスの独立に関わったとされる英雄ウィリアム・テルを描いている。重々しく荘重なフレーズから始まり、勝利に向かうウィリアム・テルの様子が示される。楽曲の最後では再び冒頭のフレーズが感動的に再現される。

第2番「ワレンシュタットの湖で」 / "Au lac de Wallenstadt"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。魅力的な牧歌風の曲。左手の伴奏は船の艪を動かす様子をあらわし、優美で静寂を帯びた旋律が付けられている。

第3番「牧歌」(パストラール) / "Pastorale"。パストラールとは牧歌的情景を描くか、その雰囲気を表現した作品のことで、もとはキリスト降誕の場面における羊飼いの笛を模した,イタリア起源の器楽曲。穏やかな12/8(6/8)拍子,平行3度,持続低音,対照的フレーズなどを特徴とする。本作品においても、穏やかな旋律と持続低音の印象的なテーマと、繰り返される短くリズミカルなテーマと対照的なテーマとが登場する。終結部では、完全終止せずに次の曲へと続いている。

第4番「泉のほとりで」 / "Au bord d'une source"。タイトルはドイツの詩人シラーの詩『追放者』より。魅力的な牧歌風の曲で、そのタイトルが示すように瑞々しさに溢れる。《スイス 第一年》の中で最もよく知られており、本作品のみを取り出して演奏することも多い。後の《エステ荘の噴水》につながる傑作とされる。

第5番「夕立」 / "Orage"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。山の嵐を絵画的に描写している。1855年、ヴァイマル宮廷楽長時代に新たに作られたもので、曲集中でも際立って技巧的な作品である。

第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。

第7番「牧歌」(エグローグ) / "Eglogue"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。エグローグとは田園的、牧歌的作品を指す語で、本来は対話形式の文学作品にしばしば適用されてきた。19世紀になると主にピアノ作品に用いられるようになった。リストの本作品はスイスの羊飼いの歌をもとにして作られている。第5番と同様新たに追加されたと考えられているが、今日では、既に1836年に作曲されていたとする説が有力である。

第8番「郷愁」 / "Le mal du pays"。タイトルはフランスの作家セナンクールの『オーベルマン』より。その中の一節で、主人公オーベルマンがパリから友人に書いた「自分の唯一の死に場所こそアルプスである」というアルプスへの郷愁を曲にしたものと言われている。極めて簡素で民族風の雰囲気のある曲である。

第9番「ジュネーヴの鐘」 / "Les cloches de Geneve"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より取られており、《旅人のアルバム》の初期稿では「私は自らのなかに生きるのではなく、私を包み込んでくれるものの一部になる」という、同じくバイロンの言葉が書かれている。この初期稿は1835年12月に生まれた、リストとマリー・ダグー伯爵夫人の子、ブランディーヌに捧げられた(ブランディーヌはリストが「ムシュ」と呼び、かわいがった娘である)。その穏やかで安らかな心情がかいま見えるような曲調となっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - チッコリーニ,アルド

フランス在住のイタリア人ピアニスト。ナポリ出身。1949年にパリのロン・ティボー国際コンクールに優勝する。1969年にフランスに帰化し、1970年から1983年までパリ音楽院で教鞭を執った。フランス近代音楽の解釈者ならびに擁護者として国際的に著名であり、数多くの曲を録音している。

2. 巡礼の年 第1年 「スイス」 全曲 / リスト,フランツ / 演奏者不明

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楽曲解説 - 巡礼の年 第1年 「スイス」 全曲

《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。

《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。

《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。

第1番「ウィリアム・テルの聖堂」 / "La chapelle de Guillaume Tell"。スイスの独立に関わったとされる英雄ウィリアム・テルを描いている。重々しく荘重なフレーズから始まり、勝利に向かうウィリアム・テルの様子が示される。楽曲の最後では再び冒頭のフレーズが感動的に再現される。

第2番「ワレンシュタットの湖で」 / "Au lac de Wallenstadt"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。魅力的な牧歌風の曲。左手の伴奏は船の艪を動かす様子をあらわし、優美で静寂を帯びた旋律が付けられている。

第3番「牧歌」(パストラール) / "Pastorale"。パストラールとは牧歌的情景を描くか、その雰囲気を表現した作品のことで、もとはキリスト降誕の場面における羊飼いの笛を模した,イタリア起源の器楽曲。穏やかな12/8(6/8)拍子,平行3度,持続低音,対照的フレーズなどを特徴とする。本作品においても、穏やかな旋律と持続低音の印象的なテーマと、繰り返される短くリズミカルなテーマと対照的なテーマとが登場する。終結部では、完全終止せずに次の曲へと続いている。

第4番「泉のほとりで」 / "Au bord d'une source"。タイトルはドイツの詩人シラーの詩『追放者』より。魅力的な牧歌風の曲で、そのタイトルが示すように瑞々しさに溢れる。《スイス 第一年》の中で最もよく知られており、本作品のみを取り出して演奏することも多い。後の《エステ荘の噴水》につながる傑作とされる。

第5番「夕立」 / "Orage"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。山の嵐を絵画的に描写している。1855年、ヴァイマル宮廷楽長時代に新たに作られたもので、曲集中でも際立って技巧的な作品である。

第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。

第7番「牧歌」(エグローグ) / "Eglogue"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。エグローグとは田園的、牧歌的作品を指す語で、本来は対話形式の文学作品にしばしば適用されてきた。19世紀になると主にピアノ作品に用いられるようになった。リストの本作品はスイスの羊飼いの歌をもとにして作られている。第5番と同様新たに追加されたと考えられているが、今日では、既に1836年に作曲されていたとする説が有力である。

第8番「郷愁」 / "Le mal du pays"。タイトルはフランスの作家セナンクールの『オーベルマン』より。その中の一節で、主人公オーベルマンがパリから友人に書いた「自分の唯一の死に場所こそアルプスである」というアルプスへの郷愁を曲にしたものと言われている。極めて簡素で民族風の雰囲気のある曲である。

第9番「ジュネーヴの鐘」 / "Les cloches de Geneve"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より取られており、《旅人のアルバム》の初期稿では「私は自らのなかに生きるのではなく、私を包み込んでくれるものの一部になる」という、同じくバイロンの言葉が書かれている。この初期稿は1835年12月に生まれた、リストとマリー・ダグー伯爵夫人の子、ブランディーヌに捧げられた(ブランディーヌはリストが「ムシュ」と呼び、かわいがった娘である)。その穏やかで安らかな心情がかいま見えるような曲調となっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

3. 巡礼の年 第1年 「スイス」 全曲 / リスト,フランツ / フィオレンティーノ,セルジオ

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楽曲解説 - 巡礼の年 第1年 「スイス」 全曲

《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。

《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。

《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。

第1番「ウィリアム・テルの聖堂」 / "La chapelle de Guillaume Tell"。スイスの独立に関わったとされる英雄ウィリアム・テルを描いている。重々しく荘重なフレーズから始まり、勝利に向かうウィリアム・テルの様子が示される。楽曲の最後では再び冒頭のフレーズが感動的に再現される。

第2番「ワレンシュタットの湖で」 / "Au lac de Wallenstadt"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。魅力的な牧歌風の曲。左手の伴奏は船の艪を動かす様子をあらわし、優美で静寂を帯びた旋律が付けられている。

第3番「牧歌」(パストラール) / "Pastorale"。パストラールとは牧歌的情景を描くか、その雰囲気を表現した作品のことで、もとはキリスト降誕の場面における羊飼いの笛を模した,イタリア起源の器楽曲。穏やかな12/8(6/8)拍子,平行3度,持続低音,対照的フレーズなどを特徴とする。本作品においても、穏やかな旋律と持続低音の印象的なテーマと、繰り返される短くリズミカルなテーマと対照的なテーマとが登場する。終結部では、完全終止せずに次の曲へと続いている。

第4番「泉のほとりで」 / "Au bord d'une source"。タイトルはドイツの詩人シラーの詩『追放者』より。魅力的な牧歌風の曲で、そのタイトルが示すように瑞々しさに溢れる。《スイス 第一年》の中で最もよく知られており、本作品のみを取り出して演奏することも多い。後の《エステ荘の噴水》につながる傑作とされる。

第5番「夕立」 / "Orage"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。山の嵐を絵画的に描写している。1855年、ヴァイマル宮廷楽長時代に新たに作られたもので、曲集中でも際立って技巧的な作品である。

第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。

第7番「牧歌」(エグローグ) / "Eglogue"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。エグローグとは田園的、牧歌的作品を指す語で、本来は対話形式の文学作品にしばしば適用されてきた。19世紀になると主にピアノ作品に用いられるようになった。リストの本作品はスイスの羊飼いの歌をもとにして作られている。第5番と同様新たに追加されたと考えられているが、今日では、既に1836年に作曲されていたとする説が有力である。

第8番「郷愁」 / "Le mal du pays"。タイトルはフランスの作家セナンクールの『オーベルマン』より。その中の一節で、主人公オーベルマンがパリから友人に書いた「自分の唯一の死に場所こそアルプスである」というアルプスへの郷愁を曲にしたものと言われている。極めて簡素で民族風の雰囲気のある曲である。

第9番「ジュネーヴの鐘」 / "Les cloches de Geneve"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より取られており、《旅人のアルバム》の初期稿では「私は自らのなかに生きるのではなく、私を包み込んでくれるものの一部になる」という、同じくバイロンの言葉が書かれている。この初期稿は1835年12月に生まれた、リストとマリー・ダグー伯爵夫人の子、ブランディーヌに捧げられた(ブランディーヌはリストが「ムシュ」と呼び、かわいがった娘である)。その穏やかで安らかな心情がかいま見えるような曲調となっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - フィオレンティーノ,セルジオ

イタリアのピアニスト・音楽教師。活動期間は半世紀に跨るが、音楽活動そのものは散発的にしか行わなかった。

4. 巡礼の年 第1年 「スイス」 全曲 / リスト,フランツ / ラプラント,アンドレ

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楽曲解説 - 巡礼の年 第1年 「スイス」 全曲

《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。

《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。

《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。

第1番「ウィリアム・テルの聖堂」 / "La chapelle de Guillaume Tell"。スイスの独立に関わったとされる英雄ウィリアム・テルを描いている。重々しく荘重なフレーズから始まり、勝利に向かうウィリアム・テルの様子が示される。楽曲の最後では再び冒頭のフレーズが感動的に再現される。

第2番「ワレンシュタットの湖で」 / "Au lac de Wallenstadt"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。魅力的な牧歌風の曲。左手の伴奏は船の艪を動かす様子をあらわし、優美で静寂を帯びた旋律が付けられている。

第3番「牧歌」(パストラール) / "Pastorale"。パストラールとは牧歌的情景を描くか、その雰囲気を表現した作品のことで、もとはキリスト降誕の場面における羊飼いの笛を模した,イタリア起源の器楽曲。穏やかな12/8(6/8)拍子,平行3度,持続低音,対照的フレーズなどを特徴とする。本作品においても、穏やかな旋律と持続低音の印象的なテーマと、繰り返される短くリズミカルなテーマと対照的なテーマとが登場する。終結部では、完全終止せずに次の曲へと続いている。

第4番「泉のほとりで」 / "Au bord d'une source"。タイトルはドイツの詩人シラーの詩『追放者』より。魅力的な牧歌風の曲で、そのタイトルが示すように瑞々しさに溢れる。《スイス 第一年》の中で最もよく知られており、本作品のみを取り出して演奏することも多い。後の《エステ荘の噴水》につながる傑作とされる。

第5番「夕立」 / "Orage"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。山の嵐を絵画的に描写している。1855年、ヴァイマル宮廷楽長時代に新たに作られたもので、曲集中でも際立って技巧的な作品である。

第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。

第7番「牧歌」(エグローグ) / "Eglogue"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より。エグローグとは田園的、牧歌的作品を指す語で、本来は対話形式の文学作品にしばしば適用されてきた。19世紀になると主にピアノ作品に用いられるようになった。リストの本作品はスイスの羊飼いの歌をもとにして作られている。第5番と同様新たに追加されたと考えられているが、今日では、既に1836年に作曲されていたとする説が有力である。

第8番「郷愁」 / "Le mal du pays"。タイトルはフランスの作家セナンクールの『オーベルマン』より。その中の一節で、主人公オーベルマンがパリから友人に書いた「自分の唯一の死に場所こそアルプスである」というアルプスへの郷愁を曲にしたものと言われている。極めて簡素で民族風の雰囲気のある曲である。

第9番「ジュネーヴの鐘」 / "Les cloches de Geneve"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より取られており、《旅人のアルバム》の初期稿では「私は自らのなかに生きるのではなく、私を包み込んでくれるものの一部になる」という、同じくバイロンの言葉が書かれている。この初期稿は1835年12月に生まれた、リストとマリー・ダグー伯爵夫人の子、ブランディーヌに捧げられた(ブランディーヌはリストが「ムシュ」と呼び、かわいがった娘である)。その穏やかで安らかな心情がかいま見えるような曲調となっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - ラプラント,アンドレ

カナダ出身のピアニスト。