リスト 巡礼の年1年 8.郷愁 動画集 | Mボックス

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リスト 巡礼の年1年 8.郷愁 動画集

リスト 巡礼の年第1年スイス 8.郷愁の動画集です。

リスト 巡礼の年 第1年 スイス 第8番 郷愁 S.160-8

リスト 巡礼の年 第1年:スイス
第8番 郷愁 S.160-8

LISZT Années de pèlerinage Première année: Suisse
8. Le mal du pays S.160-8

リストの巡礼の年第1年スイス 第8番の郷愁です。
《巡礼の年》は第1年、第2年、第2年補巻、第3年の4集からなるピアノ独奏曲集です。
第1年はマリー・ダグー伯爵夫人と二人で訪れたスイスでの印象をもとに作曲されています。
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アルバム収録曲一覧

1. 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁 / リスト,フランツ / 久元 祐子

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

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楽曲解説 - 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁

《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。

《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。

《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。

第9番「ジュネーヴの鐘」 / "Les cloches de Geneve"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より取られており、《旅人のアルバム》の初期稿では「私は自らのなかに生きるのではなく、私を包み込んでくれるものの一部になる」という、同じくバイロンの言葉が書かれている。この初期稿は1835年12月に生まれた、リストとマリー・ダグー伯爵夫人の子、ブランディーヌに捧げられた(ブランディーヌはリストが「ムシュ」と呼び、かわいがった娘である)。その穏やかで安らかな心情がかいま見えるような曲調となっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - 久元 祐子

日本のピアニスト。東京芸術大学音楽学部器楽科(ピアノ専攻)を経て、同大学大学院修士課程を修了。全国各地、海外でリサイタルを開催。東京フィルハーモニー交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団などのオーケストラと協演。1997年秋から翌年の春まで、毎日21世紀賞(特選)の副賞として、ハワイのJAIMS研究所に留学し、比較文化論、芸術プロデュース論などを修め、成績優秀賞を得て卒業。現在、国立音楽大学音楽学部講師、PTNA((社)全日本ピアノ指導者協会)正会員。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より

2. 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁 / リスト,フランツ / チッコリーニ,アルド

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楽曲解説 - 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁

《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。

《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。

《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。

第9番「ジュネーヴの鐘」 / "Les cloches de Geneve"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より取られており、《旅人のアルバム》の初期稿では「私は自らのなかに生きるのではなく、私を包み込んでくれるものの一部になる」という、同じくバイロンの言葉が書かれている。この初期稿は1835年12月に生まれた、リストとマリー・ダグー伯爵夫人の子、ブランディーヌに捧げられた(ブランディーヌはリストが「ムシュ」と呼び、かわいがった娘である)。その穏やかで安らかな心情がかいま見えるような曲調となっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - チッコリーニ,アルド

フランス在住のイタリア人ピアニスト。ナポリ出身。1949年にパリのロン・ティボー国際コンクールに優勝する。1969年にフランスに帰化し、1970年から1983年までパリ音楽院で教鞭を執った。フランス近代音楽の解釈者ならびに擁護者として国際的に著名であり、数多くの曲を録音している。

3. 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁 / リスト,フランツ / ベルマン,ラザール

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楽曲解説 - 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁

《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。

《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。

《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。

第9番「ジュネーヴの鐘」 / "Les cloches de Geneve"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より取られており、《旅人のアルバム》の初期稿では「私は自らのなかに生きるのではなく、私を包み込んでくれるものの一部になる」という、同じくバイロンの言葉が書かれている。この初期稿は1835年12月に生まれた、リストとマリー・ダグー伯爵夫人の子、ブランディーヌに捧げられた(ブランディーヌはリストが「ムシュ」と呼び、かわいがった娘である)。その穏やかで安らかな心情がかいま見えるような曲調となっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - ベルマン,ラザール

旧ソ連出身のロシア人ピアニスト。日本では慣習的に「ラザール」とフランス語風に表記されているが、ロシア語の発音では第一音節に強勢が置かれるため「ラーザリ」が近い。
「私は19世紀の人間であり、ヴィルトゥオーソと呼ばれるタイプの演奏家に属している」と自認していたように、鮮やかな超絶技巧と芝居っ気たっぷりの演奏、濃やかな情緒表現と強靭なタッチが特徴的で、一夜で3つのピアノ協奏曲とソナタ1曲を弾き切ったこともある。

4. 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁 / リスト,フランツ / 演奏者不明

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楽曲解説 - 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁

《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。

《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。

《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。

第9番「ジュネーヴの鐘」 / "Les cloches de Geneve"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より取られており、《旅人のアルバム》の初期稿では「私は自らのなかに生きるのではなく、私を包み込んでくれるものの一部になる」という、同じくバイロンの言葉が書かれている。この初期稿は1835年12月に生まれた、リストとマリー・ダグー伯爵夫人の子、ブランディーヌに捧げられた(ブランディーヌはリストが「ムシュ」と呼び、かわいがった娘である)。その穏やかで安らかな心情がかいま見えるような曲調となっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

5. 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁 / リスト,フランツ / フィオレンティーノ,セルジオ

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楽曲解説 - 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁

《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。

《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。

《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。

第9番「ジュネーヴの鐘」 / "Les cloches de Geneve"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より取られており、《旅人のアルバム》の初期稿では「私は自らのなかに生きるのではなく、私を包み込んでくれるものの一部になる」という、同じくバイロンの言葉が書かれている。この初期稿は1835年12月に生まれた、リストとマリー・ダグー伯爵夫人の子、ブランディーヌに捧げられた(ブランディーヌはリストが「ムシュ」と呼び、かわいがった娘である)。その穏やかで安らかな心情がかいま見えるような曲調となっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - フィオレンティーノ,セルジオ

イタリアのピアニスト・音楽教師。活動期間は半世紀に跨るが、音楽活動そのものは散発的にしか行わなかった。

6. 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁 / リスト,フランツ / ラプラント,アンドレ

Ann?es de p?lerinage. Premi?re ann?e: Suisse, S. 160 (1848-54) (Years of Pilgrimage. First Year: Switzerland) I. Chapelle de Guillaume Tell (The Chapel of William Tell) [0:07] II. Au lac de Wallenstad 演奏と共に楽譜が見られます。

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楽曲解説 - 巡礼の年 第1年 「スイス」 第8番 郷愁

《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。

《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。

《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。

第9番「ジュネーヴの鐘」 / "Les cloches de Geneve"。タイトルはバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡遊』より取られており、《旅人のアルバム》の初期稿では「私は自らのなかに生きるのではなく、私を包み込んでくれるものの一部になる」という、同じくバイロンの言葉が書かれている。この初期稿は1835年12月に生まれた、リストとマリー・ダグー伯爵夫人の子、ブランディーヌに捧げられた(ブランディーヌはリストが「ムシュ」と呼び、かわいがった娘である)。その穏やかで安らかな心情がかいま見えるような曲調となっている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - ラプラント,アンドレ

カナダ出身のピアニスト。