リスト 巡礼の年第1年スイス 6.オーベルマンの谷の動画集です。
2009 コンペティション決勝/PTNA Piano Competition?
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。私立桐朋女子高等学校音楽科在学中。ピティナ・ピアノコンペティションにて、2005年第29回Jr.G級銅賞。全日本学生音楽コンクールにて、2006年第60回東京大会高校の部第1位・全国大会同部第1位。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
音源情報: CD 「リスト ピアノ作品集Ⅰ」 (PARTENZA RECORDS)より
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。1983年昭和音楽短期大学を特別賞を受賞して卒業。84年、同専攻科を学長賞を受賞して修了。85年よりイタリア留学。87年、イタリア、ローマのサンタ・チェチリア国立音楽院をピアノでは10年以上出ていなかった名誉賞を受賞し首席で卒業。在学中からローマでテレビ出演するなどイタリア各地で精力的な演奏活動を行う。 90年に帰国。東京と名古屋にてオール・リスト・プログラムのリサイタルで国内デビュー以降、現在に至るまで昭和音楽大学にて後進の指導にあたるかたわら、国際的な演奏活動を行う。国内外のオーケストラとの共演も多い。芸術協会会員。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
神戸大学卒業後、パリ・エコール・ノルマル音楽院にてピアノと室内楽共に高等演奏家課程ディプロムを審査員満場一致で取得卒業。2000年に第3回クララ・シューマン国際ピアノコンクールで日本人初の上位入賞。その後もフランス、イタリア、スペインなど十指を超える国際コンクールで優勝や上位入賞を続ける。現在は年間60回以上の国内外での演奏活動を続けながら、全国各地で審査員、公開講座、指導なども務める。全日本ピアノ指導者協会正会員。2010年PTNA新人指導者賞、2012年PTNA指導者賞(特級グランプリなど輩出)。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシア出身のピアニスト。2008年4月に行われた第8回国際リストコンクールにおいて第1位を受賞。2011にかけて、世界中をめぐるコンサート・ツアーが予定されている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。東京藝術大学音楽学部を経て、同大学大学院修士課程修了。現在、同大学院博士課程在籍。
第26回ピティナ・ピアノコンペティション全国大会G級金賞・東京都知事賞・読売新聞社賞・ヒノキ賞・王子賞。第77回日本音楽コンクール第1位・野村賞・井口賞・河合賞・三宅賞。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
フランス在住のイタリア人ピアニスト。ナポリ出身。1949年にパリのロン・ティボー国際コンクールに優勝する。1969年にフランスに帰化し、1970年から1983年までパリ音楽院で教鞭を執った。フランス近代音楽の解釈者ならびに擁護者として国際的に著名であり、数多くの曲を録音している。
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
旧ソ連出身のロシア人ピアニスト。日本では慣習的に「ラザール」とフランス語風に表記されているが、ロシア語の発音では第一音節に強勢が置かれるため「ラーザリ」が近い。
「私は19世紀の人間であり、ヴィルトゥオーソと呼ばれるタイプの演奏家に属している」と自認していたように、鮮やかな超絶技巧と芝居っ気たっぷりの演奏、濃やかな情緒表現と強靭なタッチが特徴的で、一夜で3つのピアノ協奏曲とソナタ1曲を弾き切ったこともある。
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
イタリアのピアニスト・音楽教師。活動期間は半世紀に跨るが、音楽活動そのものは散発的にしか行わなかった。
Ann?es de p?lerinage. Premi?re ann?e: Suisse, S. 160 (1848-54) (Years of Pilgrimage. First Year: Switzerland) I. Chapelle de Guillaume Tell (The Chapel of William Tell) [0:07] II. Au lac de Wallenstad 演奏と共に楽譜が見られます。
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
カナダ出身のピアニスト。
Glenn Plaskin writes in his Horowitz biography regarding the pianist's 1966 fall recitals that, "the program ended with the seldom-heard Liszt Vallee d' Obermann from Annees de Pelerinage. Horowitz wa
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ウクライナ生まれのアメリカのピアニスト。最後のヴィルティオーゾ(巨匠)スタイルのピアニストと言われている。ロシアで生まれ、その後亡命して後半生はアメリカを中心に演奏家として活躍した。
チャールズ皇太子が、ダイアナが第一子を生んだ時に演奏に来てほしいとホロヴィッツに頼んだ時は、「コンコルドでロンドンに行けるなら演奏してもよい」と発言し、本当にコンコルドでに乗って出かけた(もちろん、イレギュラーで)、という今となっては伝説化しているエピソードもある。
途中、演奏を中断していた時期もありましたが、「復活」のリサイタルは、歴史的なカムバックとしてライブが残されています。
The eminent pianist,Claudio Arrau, plays Liszt's "Vallee d'Obermann..Claudio Arrau, studied with the Liszt pupil Martin Krause. Krause came to Liszt in 1882 at the age of 29. He is not in the "Liszt a
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
南米チリ出身でアメリカを中心に活動したピアニスト。20世紀を代表するピアノの巨匠として知られた。
1941年、カーネギー・ホールにデビューし、翌年より本拠をアメリカに移す。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍(日本には1965年初来日)。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。
Ann?es de p?lerinage. Premi?re ann?e: Suisse, S. 160 (1848-54) (Years of Pilgrimage. First Year: Switzerland) I. Chapelle de Guillaume Tell (The Chapel of William Tell) [0:07] II. Au lac de Wallenstad 演奏と共に楽譜が見られます。
《巡礼の年》(《巡礼の年報》とも訳される)は《第1年》、《第2年》、《第2年補巻》、《第3年》の4集から成るピアノ独奏曲集である。リストが20代から60代にかけて作曲した作品が集められており、リストの驚異的なピアニズムと絵画的な表現に対する天賦の才能が見られる。
《巡礼の年 第1年スイス》は、1835年から36年にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とふたりで旅したスイスでの印象をもとに作曲されている。
《第1年スイス》は当初、《旅人のアルバム》(三部・全19曲から成り、さまざまな曲名で出版されるなど複雑な成立過程を持つ作品)として、1836年から1842年の間に何度か出版されたものである(最終的には1842年10月に、ウィーンのハスリンガー社から三部まとめて出版された)。リスト自身は《旅人のアルバム》について、「もっとも強い感動、もっとも鮮明な印象を音で表現した」と述べている。今日よく知られている《巡礼の年 第1年スイス》は、その《旅人のアルバム》第一部の5曲と第二部の2曲を改訂し、新たに2曲を追加した、全9曲の作品集である。ヴァイマル宮廷楽長時代の1855年にショット社から出版された。第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"のように文学作品と結びついたものもあるが、スイスの自然や民謡と密接な関係にある曲が大半を占めている。
第6番「オーベルマンの谷」 / "Vallee d'Obermann"。タイトルはセナンクールの『オーベルマン』より。『オーベルマン』は、主人公オーベルマンから友への書簡という形式を用いて書かれており、主人公の精神の遍歴を描いている。曲においても主人公の経験が見事に表現されている。曲集中、最も演奏時間が長い。冒頭の主題の変容から全体が構成されている。主題変容の技法は、彼の革新的な和声法とともにリスト独自の様式を形作っている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。
神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。
その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。
やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。
リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
カナダ出身のピアニスト。