リスト ピアノ協奏曲第1番全楽章 動画集 | Mボックス

Music video

リスト ピアノ協奏曲第1番全楽章 動画集

リスト ピアノ協奏曲 第1番 全楽章の動画集です。

リスト ピアノ協奏曲 第1番 全楽章

リスト ピアノ協奏曲 第1番 S.124 全楽章

LISZT Piano Concerto No.1 in E flat major S.124
All movements

リストのピアノ協奏曲 第1番の全4楽章です。
2曲しか残されていないピアノ協奏曲と呼ばれる作品のうちの一つです。
リスト 協奏曲動画集一覧はこちら

アルバム収録曲一覧

1. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / 関本 昌平

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - 関本 昌平

日本のピアニスト。桐朋女子高等学校音楽科(共学)卒業。パリ・エコール・ノルマル音楽院卒業。桐朋学園大学ソリスト・ディプロマコース在籍。2003年ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリ及び第1回福田靖子賞。同年、第5回浜松国際ピアノコンクール第4位入賞。2005年第15回ショパン国際ピアノコンクール第4位入賞。2000年カーネギーホールおよびスタインウェイホールのコンサート(AADGT主催)に出演。国内外の交響楽団と共演、演奏会に出演等国内外で活躍中。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より

2. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / 太田 実花

2011年ピティナ ピアノコンペティション 特級ファイナル 2011 PTNA Piano Competition
「ピティナ・ピアノ曲事典」より

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - 太田 実花

日本のピアニスト。現在東京音楽大学器楽専攻(ピアノ演奏家コース)に在学中。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

3. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / 阪田 知樹

第35回ピティナ コンペティション全国決勝 特級グランプリ
「ピティナ・ピアノ曲事典」より

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - 阪田 知樹

日本のピアニスト。2011年度ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリ。2007年、第61回全日本学生音楽コンクール全国大会中学校の部第2位。2009年、アジア国際音楽コンクール最優秀賞及びピアノ部門高校生の部第1位。2009年、第4回福田靖子賞選考会第1位(福田靖子賞)。2011年、第9回フランツ・リスト国際ピアノコンクール(オランダ)セミファイナリスト。2011年、第35回ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリ。現在、東京藝術大学音楽学部器楽科に在学。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

4. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / ホラーク,ミハル

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - ホラーク,ミハル

ピアニスト。武蔵野音楽大学を平成13年に卒業。更に同大学院ピアノ科に入学、平成15年修了。平成15年よりオーストリア国立グラーツ音楽大学ピアノ科で研鑽を積み、同大学ポストグラドゥエイトを最優秀の成績で修了。第20回PTNAピアノコンペティションG級銅賞。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

5. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / 後藤 正孝

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - 後藤 正孝

日本のピアニスト。国内外で数多くのリサイタル、室内楽やオーケストラとの共演を行う。
2004年ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリ受賞、2010年第8回東京音楽コンクール第2位。 また、2011年第9回フランツ・リスト国際ピアノコンクールでは審査員満場一致で第1位に輝き、併せて聴衆賞受賞し一躍注目を集めた。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より

6. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / ツィメルマン,クリスティアン

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - ツィメルマン,クリスティアン

ポーランドのピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。1975年の第9回ショパン国際ピアノコンクールに史上最年少(18歳)で優勝、その後も着実にキャリアを重ね、現在に至っている。幅広いレパートリーを有している。世界の名指揮者との共演を重ねている。日本でも絶大な人気を誇る。

7. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / ラン・ラン

Lang Lang performs Liszt Piano Concerto No. 1 in E flat major during Last Night Proms 2011 inside the Royal Albert Hall. Edward Gardner conducts the BBC Symphony Orchestra.

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - ラン・ラン

中国遼寧省瀋陽出身のピアニスト。1999年、17歳のとき突破口が訪れる。ラヴィニア音楽祭のガラ・コンサートで、急病の先輩ピアニストの代理として、チャイコフスキーの《ピアノ協奏曲 第1番》を、見事に演奏した。これがシカゴ・トリビューン紙によって、将来の嘱望される何年かに一人の逸材と評価された。2008年8月8日、北京オリンピックの開会式において、中国の作曲家・葉小綱の協奏曲を演奏した。映画『のだめカンタービレ最終楽章』の野田恵役の上野樹里のピアノ演奏をすべて担当している。

8. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / リー,ユンディ

Yundi Plays Franz Liszt, Piano Concerto No. 1 in E-flat Major with Conductor Zuohuang Chen, in Beijing Concert. For Encore Performances hit: www.youtube.com

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - リー,ユンディ

中国・重慶生まれのピアニスト。2000年、ワルシャワで開かれた第14回ショパン国際ピアノコンクールで、スタニスラフ・ブーニン以来15年ぶりに第1位での優勝を果たし、一躍注目を浴びる。ショパン・コンクールでの優勝は中国人では初。

美しい音色と確かなテクニック、そして深い音楽性を持ち、世界中から将来を期待される若手のホープといわれている。日本の一部のメディアからは「中国のキムタク」ともてはやされた。ショパン・コンクール優勝後も、ドイツで研鑽を積む。、現在は香港の市民権を得て同地に在住。

9. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / アルゲリッチ,マルタ

Full-length performance of Liszt's E-flat concerto, under the baton of von Dohnanyi. Performed September 13, 1981 in Berlin, I believe.

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - アルゲリッチ,マルタ

アルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。1955年、アルゲリッチの演奏を聴いたフアン・ペロン大統領は、彼女に優れた音楽教育を受けさせるため、外交官であった彼女の父親にウィーン赴任を命じたほどの才能を示していた。家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。1969年、シャルル・デュトワと結婚し(2度目)、娘をもうけるが、来日の際に夫婦喧嘩となり、アルゲリッチだけが帰国し離婚した逸話もある。後にピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。

ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり室内楽に活動の幅を広げる。ヴァイオリニストのクレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。

1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。1998年から別府アルゲリッチ音楽祭、1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール、2001年からブエノスアイレス-マルタ・アルゲリッチ音楽祭、2002年からルガーノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。

10. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / フレイレ,ネルソン

1. Allegro. 2. Quasi adagio 3. Allegretto vivace. 4. Allegro animato. 5. Allegro marziale animato. Nelson Freire, piano. Dresdner Philharmonie, Michel Plasson.

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - フレイレ,ネルソン

ブラジルのピアニスト。

11. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / リヒター,カール

Performed by: Sviatoslav Richter Better quality, all in one video and in widescreen! 00:04 - 1st Movement - Allegro Maestoso 05:14 - 2nd Movement - Quasi Adagio 10:14 - 3rd Movement - Allegretto Vivac 演奏と共に楽譜が見られます。

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - リヒター,カール

ドイツの指揮者、オルガン・チェンバロ奏者。特にバロック時代の作品の指揮・演奏で有名。

12. ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章 / リスト,フランツ / ルービンシュタイン,アルトゥール

(1) Allegro maestoso

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 全楽章

リストはピアニストとして活躍していたためにピアノ作品は非常に多いが、ピアノ協奏曲と呼ばれる作品は、2曲しか残されていない。この2曲のピアノ協奏曲は、いずれもピアノの華やかな技巧が前面に押し出されており、演奏時間にして20分前後という比較的小さめの規模で、いくつかの楽章(部分)を連続して演奏される点に特徴がある。

この第1番の協奏曲は1830年に作曲が始まっているが、大部分は1846年頃から1849年にかけて作曲され、初演後も何度か改訂された。初演はベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで1852年にワイマールで行われたが、これを聴いた批評家ハンスリック(1825~1904)は第3楽章のトライアングルが活躍する部分を皮肉って‘トライアングル協奏曲’と呼んだというエピソードが伝えられている。いずれにせよ、第2番の協奏曲に比べてピアノのきらびやかなテクニックが散りばめられ、またオーケストラも充実した書法を見せ、ロマン派のピアノ協奏曲の中でも最も好んで演奏される1曲となっている。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 変ホ長調 4分の4拍子。自由なソナタ形式で書かれ、衝撃的で力強く登場する冒頭部やカデンツァの多用など、華々しい協奏曲の幕開けとなる。

第2楽章 クワジ・アダージョ ロ長調 8分の12拍子。3部形式による緩徐楽章。優美なメロディが流れるが、やがて様々な楽器とやり取りを始めて、華いでいく。

第3楽章 アレグレット・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子。自由な形式のスケルツォ。軽快なピアノとトライアングルが交互に登場、後に第1楽章冒頭の音型が現れて、続く楽章へと突入する。

第4楽章 アレグロ・マルチアーレ・アニマート~プレスト 変ホ長調 4分の4拍子。自由な形式のフィナーレ。これまでに登場したメロディが次から次へと顔を出し、豪華なクライマックスへ発展する。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - リスト,フランツ

ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。

神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。

その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。

やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。

リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

演奏家解説 - ルービンシュタイン,アルトゥール

ポーランド出身のピアニスト。「ショパン弾き」と言われるほどショパンの演奏は自然で気品に満ちている。90歳近くまで現役として演奏を続けていたため、録音が残されている。ショパンのイメージが強いが実は他の作曲家、室内楽での演奏(録音)にも名演が数多く存在する。