ドビュッシー 練習曲集全曲 動画集 | Mボックス

Music video

ドビュッシー 練習曲集全曲 動画集

ドビュッシー 練習曲集全曲動画集です。

ドビュッシー 練習曲

ドビュッシー 練習曲集 L136

DEBUSSY Etudes L136

ドビュッシー 練習曲集の全12曲です。
ドビュッシーが最晩年に作曲した全12曲の作品集です。
ドビュッシー 練習曲集動画集一覧はこちら

アルバム収録曲一覧

1. 練習曲集 全曲 / ドビュッシー,クロード / 内田 光子

内田光子さんがドビュッシーの練習曲(エチュード)について語っています。 「機関銃」のような早口のドイツ語で語っています。 非常に的を得た、しかも彼女位に深く研究し、演奏できる人にしか感じられない境地を語っています。 とても参考になります。

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - 練習曲集 全曲

1915年、これまで健康の不調と第一次大戦への苦悩などからしばらく作曲ができていなかったドビュッシーだが、ショパンの楽譜を校訂する仕事をきっかけに、創作力をとりもどした。ここで作曲されたのが《12の練習曲》であり、これはショパンに献呈されている。この練習曲では、ただ技巧を追求するための作品として作曲されているわけではない。彼はこの作品を通じて、彼自身の音楽性のあり方を再検討したのであろう。練習曲でありながら、運指法が指示されていないことも特徴の一つであるが、ドビュッシーはこれを意図的におこなっている。つまり、演奏者の腕や手の構造には違いがあるため、各人に合った運指法を各自で追求していくこともまた、課題の一つになっているのである。

6曲ずつの2巻に分けられている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - ドビュッシー,クロード

フランスの作曲家。
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日、父マニュエルと母ヴィクトリーヌの長男として、パリ西郊約20キロの町サン=ジェルマン=アン=レに生まれた。

ドビュッシーは、ワーグナーを乗り越えるためにフランス固有の美を武器とし、大胆な語法によって20世紀音楽への扉をあけた作曲家である。長調・短調の明確な対比を嫌った彼は、教会旋法、東洋風の5音音階、全音音階などを駆使し、印象派の画家たちが遠近法を回避するために画面を分割したように、平面的、スタティックな美を生み出した。

ドビュッシーのピアニズムには、大きくわけて次の3つの源流がある。モーテ夫人を通じて伝えられたショパンの技法(ビロードのようなタッチと美しい響き、軽やかなリズムなど)、やはりモーテ夫人に目を開かれたバッハの書法(対位法的、優雅なアラベスクなど)、18世紀クラヴサン音楽の技法(多彩な装飾音、「バトリ」など)。

ドビュッシー独自の語法としては、ペダルで白鍵と黒鍵の響きを混ぜたり、重音や和音塊を平行移動させたり、いくつもの層を積み重ねて、独特の「音響宇宙」を生み出したこと、ポリリズムやルバートを多用して自在な律動を作り出したことなどがあげられる。

1907年にドビュッシーは、「私はますます音楽というのは色彩と律動づけられた時間でできていると確信するようになった」と書いているが、調性からもリズムからも自由になりながら有機性を失わなかったドビュッシーの在り方を象徴するような言葉である。

『前奏曲集第1巻』が『管弦楽のための映像』の「イベリア」と同時進行していたように、ドビュッシーのピアノ曲はオーケストラ曲やオペラ、声楽曲と密接なかかわりももつものが多い。従って、単にピアノ曲としての解釈にとどまるのではなく、背景となっているテキストや管弦楽の色彩感をとりいれなければ、片手落ちになるだろう。

ドビュッシーの「音響宇宙」にはペダルの使用が不可欠だが、彼の発想はしばしば管弦楽的で、幾重もの音響レベルを明確に弾きわけるタッチとペダリングが求められる。

東洋美術に深い関心をもち、また作品にもとりいれたドビュッシーは、作曲にあたってのモットーを「ものごとの半分まで言って想像力に接ぎ木させる」と表現している。すべてをさらけ出さず、深く静かに潜行させるその姿勢は、東洋人、とりわけ日本人の美意識にもっとも近い作曲家ということができよう。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より


フランス近代の印象派を代表する作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。ドビュッシーの音楽は、その特徴的な和音構成などで、音の印象を表現するという独特の表現スタイルを確立し、「印象主義音楽(印象派)」と称されている。

演奏家解説 - 内田 光子

日本出身、英国籍のピアニスト。お茶の水女子大学附属小学校在学中、桐朋学園の「子供のための音楽教室」にて、松岡貞子に学ぶ。父内田藤雄が外交官であったため、12歳で渡欧。1961年からオーストリアのウィーン音楽院(現:ウィーン国立音楽大学)でリヒャルト・ハウザーに師事する。同時期に、留学中の寺田悦子が同音楽院に在籍し、互いに切磋琢磨した。
その後数々のコンクールにも入賞し、ヨーロッパを中心に活躍する日本人ピアニストとして活躍中。