プロコフィエフ ピアノソナタ第7番 変ロ長調「戦争」 Op.83 全楽章の動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
このピアノ・ソナタは、それまで米国、パリで暮らしていたプロコフィエフがソビエトに戻り、彼の創作活動の円熟期ともいえる時期に作曲された作品である。演奏者に高度な技巧を要求すると同時に、強烈な印象を与えるダイナミックさと美しい叙情性を見事に兼ね備えている。ピアノ・ソナタ史の中でも特筆すべき傑作であり、新しい可能性をもたらした作品と言えるだろう。
プロコフィエフは未完成のものを除き生涯で9曲のピアノ・ソナタを書き残しているが、第2次世界大戦中に書かれた第6番から第8番が「戦争ソナタ」と呼ばれる。これらの3作はいずれも完成度が高く、特にこの第7番は発表された当時大きな反響を呼んだ。大戦やソヴィエト体制の深刻な社会状況が当然作品に反映されていると考えられるが、隙のない構成美、野性的な活力といったプロコフィエフの音楽的魅力が余すことなく発揮されており、作品それ自体で圧倒的な存在感を持っている。
第1楽章 Allegro Inquieto (速く・不安に) 緻密なソナタ形式になっており、リズミックな主題と旋律的な主題が対照的に現れる。
第2楽章 Andante Caloroso (程好く速く・熱情的に)叙情的で重厚な響きになっているが、微妙なテンポの揺れやリズム感も織り込まれている。
第3楽章 Precipitato(猛烈に)ピアノ曲には珍しい7拍子の曲で、八分音符単位で2-3-2の組合せによるリズムで書かれている。エネルギッシュな勢いを持ち、クライマックスへと突進する。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。ウクライナの裕福な家庭に生まれ、ピアニストである母親に影響を受ける。幼少のころからその音楽的才能はずば抜けたもので、5歳で最初のピアノ曲を作曲し、その後和声・形式・管弦楽法の基礎を学ぶと10歳の頃にはすでに4楽章から成るシンフォニーを書いている。少年期にはおびただしい量のピアノのための小品を書き、もちろんそれら初期の作品は模倣的な習作の要素が強い印象はあるが、すでに後に洗練され固定されてゆくプロコフィエフの独自の作風につながる音楽性を秘めている。 1904年からはペテルブルク音楽院で本格的に学ぶようになるが、音楽的に早熟した彼にとっては音楽院の授業は退屈なものであった。しかし作曲家で指揮者のニコライ・チェレプニン(彼はドビュッシーや晩年のスクリャービンに大きな影響を受けた)に出会い、特にその神秘性や感覚的な音響に刺激を受けたことから、プロコフィエフは強烈で個性的な音楽の作曲へと導かれることとなる。1918年~22年はアメリカで、22年~36年はパリ、36年以降は再びソ連で活動。鋭い性格描写や風刺的な作風、ピアノの打楽器的な扱いや和声などその作品には彼独特のスタイルが見られ、20世紀を代表する重要な音楽家のひとりである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
現在のウクライナ、ドネツィク州に生まれた。ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。
交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。
日本のピアニスト。桐朋女子高等学校音楽科(共学)卒業。パリ・エコール・ノルマル音楽院卒業。桐朋学園大学ソリスト・ディプロマコース在籍。2003年ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリ及び第1回福田靖子賞。同年、第5回浜松国際ピアノコンクール第4位入賞。2005年第15回ショパン国際ピアノコンクール第4位入賞。2000年カーネギーホールおよびスタインウェイホールのコンサート(AADGT主催)に出演。国内外の交響楽団と共演、演奏会に出演等国内外で活躍中。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より