プロコフィエフ 《ロメオとジュリエット》からの10の小品 Op.75 第10曲 別れの前のロメオとジュリエットの動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
バレエ《ロメオとジュリエット》(1936年)は、シェイクスピアの悲劇『ロメオとジュリエット』に基づく、プロコフィエフの最も広く愛されている傑作の一つである。このバレエをもとに、プロコフィエフは管弦楽用の3つの組曲と、ピアノ独奏用の《10の小品》を作った。《10の小品》(1937年)は、作曲年にプロコフィエフが初演している。これらの小品は、バレエの原曲から編曲に適した箇所を抜き出して再構成したもので、管弦楽用の組曲と同様、バレエの筋に沿った順序で配列されてはいない。
第10曲〈別れの前のロメオとジュリエット〉Lento。バレエの第3幕の第1場、ジュリエットの寝室で、夜の静寂のなかでロメオとジュリエットが愛を確かめ合い、ロメオが旅立つ場面(No.38とNo.39)の音楽で始まる。アダージョ(50小節目から)では、パレスとの結婚を両親に迫られ、絶望に陥ったジュリエットが、ローレンスの助けを請いに赴く場面(No.43)の、ドラマティックな旋律が歌われる。全曲を締めくくる静かなアンダンテ(71小節目から)は、ジュリエットがローレンスの助言に従い、ロメオへの愛を貫こうと、周囲を欺くために仮死状態に陥る薬を飲む場面の音楽。ジュリエットの迷いや不安、そして死の香りが幻想的に描かれる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。ウクライナの裕福な家庭に生まれ、ピアニストである母親に影響を受ける。幼少のころからその音楽的才能はずば抜けたもので、5歳で最初のピアノ曲を作曲し、その後和声・形式・管弦楽法の基礎を学ぶと10歳の頃にはすでに4楽章から成るシンフォニーを書いている。少年期にはおびただしい量のピアノのための小品を書き、もちろんそれら初期の作品は模倣的な習作の要素が強い印象はあるが、すでに後に洗練され固定されてゆくプロコフィエフの独自の作風につながる音楽性を秘めている。 1904年からはペテルブルク音楽院で本格的に学ぶようになるが、音楽的に早熟した彼にとっては音楽院の授業は退屈なものであった。しかし作曲家で指揮者のニコライ・チェレプニン(彼はドビュッシーや晩年のスクリャービンに大きな影響を受けた)に出会い、特にその神秘性や感覚的な音響に刺激を受けたことから、プロコフィエフは強烈で個性的な音楽の作曲へと導かれることとなる。1918年~22年はアメリカで、22年~36年はパリ、36年以降は再びソ連で活動。鋭い性格描写や風刺的な作風、ピアノの打楽器的な扱いや和声などその作品には彼独特のスタイルが見られ、20世紀を代表する重要な音楽家のひとりである。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
現在のウクライナ、ドネツィク州に生まれた。ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。
交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。
日本のピアニスト。桐朋学園大学音楽学部演奏学科ピアノ科で学び、19歳よりバンクーバーに留学し、ロシア・レニングラード派の基礎を学ぶ。また、巨匠ラザール・ベルマンに弟子入りし、以後師の亡くなるまで師の最後の弟子としてイタリア・フィレンツェにて研鑽を重ねる。
ポップスとクラシックのコラボレーションを行い、クラシックを基にジャンルを超えた幅広い活動を展開、国内外での公演のほか、ピアノレクチャー、マスタークラスなど後進の育成にも精力的にあたっている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より