プロコフィエフ 子供のための音楽 1.朝 動画集 | Mボックス

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プロコフィエフ 子供のための音楽 1.朝 動画集

プロコフィエフ 子供のための音楽 第1曲 朝の動画集です。

プロコフィエフ 子供のための音楽 第1曲 朝

プロコフィエフ 子供のための音楽 作品65
第1曲 朝

PROKOFIEV Music for Children Op.65
No.1 Morning

プロコフィエフの子供のための音楽 第1曲 朝です。
全12曲のピアノ独奏小品集です。
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アルバム収録曲一覧

1. 子供の音楽 第1曲 朝 / プロコフィエフ,セルゲイ / イーゴリ・ジューコフ

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楽曲解説 - 子供の音楽 第1曲 朝

1917年のロシア革命をきっかけにアメリカとヨーロッパで亡命生活を送っていたプロコフィエフは、ソビエト政権下となった母国に復帰し、1935年、パリに残していた妻子を呼び寄せた。《子供の音楽 12のやさしい小品》はその頃の作品である。

当時、ソ連共産党は芸術家に対し、社会主義リアリズムのもと人民にわかりやすく明快な作品を生み出す創作活動を要求すると同時に、国策として音楽教育に注力。子供のため「芸術的に優れた内容の作品」を作ることが、いっそう推奨された。これに反すると看做された作品は厳しく批判を受けるという状況の中、プロコフィエフはこの小品集を「子供のための音楽」として古典的、かつわかりやすい民俗的な楽想の小品でまとめつつ、その中に彼らしい音楽要素をちりばめた。今日でも音楽教育の場で用いられるだけでなく、コンサートなどの場でも広く演奏されている。



第1曲《朝 Matin》:Andante tranquilloという指示のとおり、穏やかで静かに始まる。明快なハ長調の主和音がpで奏されながら、八分音符と十六分音符が奏でるテーマはまるで、かがやく朝日のなかでひびく鳥のさえずりのようである。中間部(8-23小節)からは、広がりある八分音符のもと左手で新しい旋律が奏でられる。18小節目にてその美しい旋律は右手へと移り、八分音符の動きも左手へと渡される。24小節目からは冒頭のテーマが再現され、雰囲気をそのままに音楽がとじられる。曲想と題名ともに、曲集の冒頭にふさわしい小品である。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - プロコフィエフ,セルゲイ

ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。ウクライナの裕福な家庭に生まれ、ピアニストである母親に影響を受ける。幼少のころからその音楽的才能はずば抜けたもので、5歳で最初のピアノ曲を作曲し、その後和声・形式・管弦楽法の基礎を学ぶと10歳の頃にはすでに4楽章から成るシンフォニーを書いている。少年期にはおびただしい量のピアノのための小品を書き、もちろんそれら初期の作品は模倣的な習作の要素が強い印象はあるが、すでに後に洗練され固定されてゆくプロコフィエフの独自の作風につながる音楽性を秘めている。 1904年からはペテルブルク音楽院で本格的に学ぶようになるが、音楽的に早熟した彼にとっては音楽院の授業は退屈なものであった。しかし作曲家で指揮者のニコライ・チェレプニン(彼はドビュッシーや晩年のスクリャービンに大きな影響を受けた)に出会い、特にその神秘性や感覚的な音響に刺激を受けたことから、プロコフィエフは強烈で個性的な音楽の作曲へと導かれることとなる。1918年~22年はアメリカで、22年~36年はパリ、36年以降は再びソ連で活動。鋭い性格描写や風刺的な作風、ピアノの打楽器的な扱いや和声などその作品には彼独特のスタイルが見られ、20世紀を代表する重要な音楽家のひとりである。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より



現在のウクライナ、ドネツィク州に生まれた。ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。

交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。

演奏家解説 - イーゴリ・ジューコフ

ロシアのピアニスト・指揮者・音響技師。
ニジニ・ノヴゴロドに生まれるが、翌年、家族に連れられモスクワに移る。4年後に、第二次世界大戦中の戦乱を避けてキーロフ(ヴャートカ)に疎開せざるを得なくなる。戦後にモスクワに戻り、1955年よりモスクワ音楽院に学ぶ。当初はエミール・ギレリスに、その後ゲンリフ・ネイガウスに師事した。パリのロン=ティボー国際コンクールで第2位に入賞した後、1960年に音楽院を卒業する。
ジューコフは、数多くの録音を発表しており、中でも2度にわたるスクリャービンのピアノ・ソナタ全集は名高い。録音技術そのものにも情熱を持って関心を寄せており、「私は録音技師のなかで最高のピアニストなのであり、ピアニストのなかで最高の録音技師なのだ」と発言したことがある。

2. 子供の音楽 第1曲 朝 / プロコフィエフ,セルゲイ / 演奏者不明

楽譜と共に

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楽曲解説 - 子供の音楽 第1曲 朝

1917年のロシア革命をきっかけにアメリカとヨーロッパで亡命生活を送っていたプロコフィエフは、ソビエト政権下となった母国に復帰し、1935年、パリに残していた妻子を呼び寄せた。《子供の音楽 12のやさしい小品》はその頃の作品である。

当時、ソ連共産党は芸術家に対し、社会主義リアリズムのもと人民にわかりやすく明快な作品を生み出す創作活動を要求すると同時に、国策として音楽教育に注力。子供のため「芸術的に優れた内容の作品」を作ることが、いっそう推奨された。これに反すると看做された作品は厳しく批判を受けるという状況の中、プロコフィエフはこの小品集を「子供のための音楽」として古典的、かつわかりやすい民俗的な楽想の小品でまとめつつ、その中に彼らしい音楽要素をちりばめた。今日でも音楽教育の場で用いられるだけでなく、コンサートなどの場でも広く演奏されている。



第1曲《朝 Matin》:Andante tranquilloという指示のとおり、穏やかで静かに始まる。明快なハ長調の主和音がpで奏されながら、八分音符と十六分音符が奏でるテーマはまるで、かがやく朝日のなかでひびく鳥のさえずりのようである。中間部(8-23小節)からは、広がりある八分音符のもと左手で新しい旋律が奏でられる。18小節目にてその美しい旋律は右手へと移り、八分音符の動きも左手へと渡される。24小節目からは冒頭のテーマが再現され、雰囲気をそのままに音楽がとじられる。曲想と題名ともに、曲集の冒頭にふさわしい小品である。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - プロコフィエフ,セルゲイ

ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。ウクライナの裕福な家庭に生まれ、ピアニストである母親に影響を受ける。幼少のころからその音楽的才能はずば抜けたもので、5歳で最初のピアノ曲を作曲し、その後和声・形式・管弦楽法の基礎を学ぶと10歳の頃にはすでに4楽章から成るシンフォニーを書いている。少年期にはおびただしい量のピアノのための小品を書き、もちろんそれら初期の作品は模倣的な習作の要素が強い印象はあるが、すでに後に洗練され固定されてゆくプロコフィエフの独自の作風につながる音楽性を秘めている。 1904年からはペテルブルク音楽院で本格的に学ぶようになるが、音楽的に早熟した彼にとっては音楽院の授業は退屈なものであった。しかし作曲家で指揮者のニコライ・チェレプニン(彼はドビュッシーや晩年のスクリャービンに大きな影響を受けた)に出会い、特にその神秘性や感覚的な音響に刺激を受けたことから、プロコフィエフは強烈で個性的な音楽の作曲へと導かれることとなる。1918年~22年はアメリカで、22年~36年はパリ、36年以降は再びソ連で活動。鋭い性格描写や風刺的な作風、ピアノの打楽器的な扱いや和声などその作品には彼独特のスタイルが見られ、20世紀を代表する重要な音楽家のひとりである。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より



現在のウクライナ、ドネツィク州に生まれた。ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。

交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。