プロコフィエフ ピアノ協奏曲1番 動画集 | Mボックス

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プロコフィエフ ピアノ協奏曲1番 動画集

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第1番 変ニ長調 Op.10の動画集です。

プロコフィエフ ピアノ協奏曲 第1番

プロコフィエフ ピアノ協奏曲 第1番 変ニ長調 作品10

PROKOFIEV Piano Concerto No.1 in D flat major Op.10

プロコフィエフのピアノ協奏曲第1番 変ニ長調です。
プロコフィエフのピアノ協奏曲では最も短い作品です。
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アルバム収録曲一覧

1. ピアノ協奏曲 第1番 変ニ長調 / プロコフィエフ,セルゲイ / アルゲリッチ,マルタ

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作曲家解説 - プロコフィエフ,セルゲイ

ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。ウクライナの裕福な家庭に生まれ、ピアニストである母親に影響を受ける。幼少のころからその音楽的才能はずば抜けたもので、5歳で最初のピアノ曲を作曲し、その後和声・形式・管弦楽法の基礎を学ぶと10歳の頃にはすでに4楽章から成るシンフォニーを書いている。少年期にはおびただしい量のピアノのための小品を書き、もちろんそれら初期の作品は模倣的な習作の要素が強い印象はあるが、すでに後に洗練され固定されてゆくプロコフィエフの独自の作風につながる音楽性を秘めている。 1904年からはペテルブルク音楽院で本格的に学ぶようになるが、音楽的に早熟した彼にとっては音楽院の授業は退屈なものであった。しかし作曲家で指揮者のニコライ・チェレプニン(彼はドビュッシーや晩年のスクリャービンに大きな影響を受けた)に出会い、特にその神秘性や感覚的な音響に刺激を受けたことから、プロコフィエフは強烈で個性的な音楽の作曲へと導かれることとなる。1918年~22年はアメリカで、22年~36年はパリ、36年以降は再びソ連で活動。鋭い性格描写や風刺的な作風、ピアノの打楽器的な扱いや和声などその作品には彼独特のスタイルが見られ、20世紀を代表する重要な音楽家のひとりである。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より



現在のウクライナ、ドネツィク州に生まれた。ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。

交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。

演奏家解説 - アルゲリッチ,マルタ

アルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。1955年、アルゲリッチの演奏を聴いたフアン・ペロン大統領は、彼女に優れた音楽教育を受けさせるため、外交官であった彼女の父親にウィーン赴任を命じたほどの才能を示していた。家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。1969年、シャルル・デュトワと結婚し(2度目)、娘をもうけるが、来日の際に夫婦喧嘩となり、アルゲリッチだけが帰国し離婚した逸話もある。後にピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。

ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり室内楽に活動の幅を広げる。ヴァイオリニストのクレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。

1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。1998年から別府アルゲリッチ音楽祭、1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール、2001年からブエノスアイレス-マルタ・アルゲリッチ音楽祭、2002年からルガーノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。