ラフマニノフ コレルリの主題による変奏曲の動画集です。
第31回ピティナ・ピアノコンペティション全国決勝大会(2007年8月26日第一生命ホール)
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシア革命を逃れ、1918年にアメリカに移住し、ピアニスト、指揮者として活躍していたラフマニノフは、その多忙さから、十分な作曲時間をもつことができていなかった。しかし、1929年本拠地をパリに移してから、再び作曲に時間を費やすことができるようになった。《コレルリの主題による変奏曲 作品42》は、そのような時期、1931年に作曲されたものであり、ピアノ独奏曲としては最後の作品になった。親友のフリッツ・クライスラーに捧げられた。
この曲の基になっているのは、アルカンジェロ・コレルリ(1653-1713)のヴァイオリンのための作品《12の独奏ソナタ集 作品5》の第12曲〈ラ・フォリア〉である。フォリアは、イベリア半島を起源とした古い舞曲であり、低音部進行や、和声進行が定型化していることを特徴の一つとしている。曲のタイトルは“コレルリの主題による”となっているが、フォリアそのものがコレルリの創作であるというわけではない。
曲は20の変奏と間奏曲とコーダから成り、構成面において緻密な配慮がなされている。図式化すると、主題―(第1~3変奏)―(第4~7変奏)―(第8~13変奏)―間奏曲―(第14~16変奏)―(第17~20変奏)―コーダ、となっている。
アンダンテの主題にはじまり、それぞれのグループにおいて、リズムやテンポを変化させながら、第20変奏のクライマックスへとむかう。コーダでは再びアンダンテとなり、静かに曲を閉じる。演奏時間は約20分。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアのピアニスト、作曲家、指揮者。苦学してモスクワ音楽院のピアノ科と作曲科を通常より1年早く卒業。特に作曲は大金章という最高成績を受けた。1892年、卒業後すぐに出版した前奏曲嬰ハ短調は、さっそく人気の作品となった。が、交響曲第1番の不評が原因で一時作曲を断念する。1902年、ピアノ協奏曲第2番を自ら初演して表舞台に返り咲き、劇場で指揮者を務めた後、06年にドレスデンに移ってからしばらくは作曲に専念した。09年に渡米、自作を演奏するピアニストとして名声を高めた。ロシア革命の混乱をかわしつつヨーロッパとアメリカで演奏活動を行い、20年代後半はヨーロッパにとどまろうと努力したが、31年にソヴィエト連邦の体制を批判したため、政府はかれの作品の上演を禁止した(これは2年ほどで解除された))。晩年は新たな戦争への危機感からアメリカへ戻った。
ラフマニノフはピアノ演奏、指揮、作曲のいずれにおいても成功を収めたが、すべてに同時に打ち込むことには困難を感じていた。後半生の演奏活動は作曲への集中力を妨げたのか、傑作は初期に多い。
ラフマニノフは、ピアノという楽器の可能性を最大限に引き出すことを追求しつづけた。 驚異的な演奏技術、人並みはずれた大きな手を持っていたと言われるが、自身のピアノ曲では技巧に終始するのではなく、哀愁や情熱を宿した美しい旋律を楽曲へと堅実に組み立てる方法を知っていた。チャイコフスキーを規範とし、あくまで長短調の枠にとどまって後期ロマン派の色彩と叙情性を継承している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。ピティナ・ピアノコンペティションにて、2000年デュオ部門上級、2004年ソロ部門G級全国決勝大会入選、2007年ソロ部門特級銀賞。2007年アールン・ピアノコンクール第1位。桐朋学園大学卒業、同大学研究科を修了。横浜市栄区民文化センターリリス・レジデンス・アーティスト。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より