ラフマニノフ 幻想的小品集 Op.3 全曲の動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ラフマニノフがモスクワ音楽院を卒業した翌年の1892年に作曲された。この曲集の第2曲《前奏曲 嬰ハ短調》によって、ラフマニノフは一躍有名になった。ピアノ曲で最初の出版物にあたる。初演は1892年、モスクワの電気博覧会で、ラフマニノフ自身により行われた。この曲集はモスクワ音楽院での作曲の師、アントン・アレンスキーに献呈された。
1. 悲歌 変ホ短調 / Morceaux de fantaisie op.3-1 "Elegie"。4分の4拍子。左手で奏される分散和音の上に、哀愁ただよう旋律が歌われる。中間部では、低音部に旋律がおかれ、これがさらに高音にあらわれたのち徐々に感情の高まりをみせる。
2. 前奏曲 嬰ハ短調 / Morceaux de fantaisie op.3-2 "Prelude"。ラフマニノフは計24曲の前奏曲をのこしており、これらの作品は、それぞれ異なった調性でかかれている。この24曲で通し番号をつけると、この《前奏曲 作品3-2》は第1曲目にあたる。嬰ハ短調、4分の4拍子 レント。モスクワ音楽院卒業の翌年、1892年に作曲されたもので、1893年に《幻想的小曲集》の第2番として出版された。前奏曲の中でも最も有名なものの一つ。冒頭の楽想は、クレムリン宮殿の鐘にインスピレーションを得て作曲されたといわれている。雑誌『Delineator 2月号(1910年)』で、ラフマニノフ自身がこの曲の構想や演奏法について言及している。その中では、テンポや奏法を過度に変化させるような「感情」に頼りすぎた演奏に注意を促しており、楽譜を注意深く分析し、形式や構造を理解し、作曲家の意図を正しくくみ取ることの必要性についても述べられている。また、強弱の対比が印象的な曲であるが、クライマックスにむけて、音量のバランスを考慮するように述べている。
3.メロディ ホ長調 / Morceaux de fantaisie op.3-3 "Melodie"。4分の4拍子。右手でやわらかく刻まれる和音にのせて、左手でたっぷりと旋律が歌われる。中間部はイ長調になり、ふたたびホ長調に戻る。
4.道化師 / Morceaux de fantaisie op.3-4 "Polichinelle"。道化師が変幻自在にとびまわるような、華やかで技巧的な作品。音量の変化にはメリハリをつけ、また、軽やかさをだすために、ペダリングにも注意したい。
5.セレナード 変ロ短調 / Morceaux de fantaisie op.3-5 "Serenade"。8分の6拍子。ソステヌートの導入部から静かにはじまる。ワルツの主題が軽やかに、しなやかに、そして時にユーモアをもって奏される。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアのピアニスト、作曲家、指揮者。苦学してモスクワ音楽院のピアノ科と作曲科を通常より1年早く卒業。特に作曲は大金章という最高成績を受けた。1892年、卒業後すぐに出版した前奏曲嬰ハ短調は、さっそく人気の作品となった。が、交響曲第1番の不評が原因で一時作曲を断念する。1902年、ピアノ協奏曲第2番を自ら初演して表舞台に返り咲き、劇場で指揮者を務めた後、06年にドレスデンに移ってからしばらくは作曲に専念した。09年に渡米、自作を演奏するピアニストとして名声を高めた。ロシア革命の混乱をかわしつつヨーロッパとアメリカで演奏活動を行い、20年代後半はヨーロッパにとどまろうと努力したが、31年にソヴィエト連邦の体制を批判したため、政府はかれの作品の上演を禁止した(これは2年ほどで解除された))。晩年は新たな戦争への危機感からアメリカへ戻った。
ラフマニノフはピアノ演奏、指揮、作曲のいずれにおいても成功を収めたが、すべてに同時に打ち込むことには困難を感じていた。後半生の演奏活動は作曲への集中力を妨げたのか、傑作は初期に多い。
ラフマニノフは、ピアノという楽器の可能性を最大限に引き出すことを追求しつづけた。 驚異的な演奏技術、人並みはずれた大きな手を持っていたと言われるが、自身のピアノ曲では技巧に終始するのではなく、哀愁や情熱を宿した美しい旋律を楽曲へと堅実に組み立てる方法を知っていた。チャイコフスキーを規範とし、あくまで長短調の枠にとどまって後期ロマン派の色彩と叙情性を継承している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
第3回仙台国際音楽コンクール入賞。現在モスクワ音楽院で教鞭をとっている。