ラフマニノフ ピアノ協奏曲第4番 ト短調 Op.40 第3楽章の動画集です。
4曲あるピアノ協奏曲の中では、あまり知られていない。1917年、ロシア革命を避け、亡命したラフマニノフは、ニューヨークに移り住むことになった。晩年ロシアに戻ることを切望したラフマニノフであったが、第2次世界大戦の勃発などが原因で、それは叶うことなく、アメリカで一生を終えた。アメリカに移り住んでからの25年間、彼が作曲した楽曲数は非常に少なく、また、その質もロシア時代のものと比較して、すぐれたものであるとは言い難い。この曲もその時期に作曲された作品の一つである。1914年に曲のスケッチを開始、亡命後10年近くのブランクを経て、1926年再び作曲にとりくみ、この曲を書き上げた。
曲は、彼に作曲をすすめた作曲家、兼ピアニストのニコライ・メトネルに献呈された。彼もラフマニノフと同様にロシアから亡命した音楽家の一人であった。現在演奏されているものは、1938年に改作されたものである。
第3楽章:アレグロ・ヴィヴーチェ ト短調 4分の3拍子。するどい管弦楽の音ではじまる導入楽想に続き、ピアノがめまぐるしい動きでかけまわる。主題がピアノと管弦楽で奏された後、三連音符による楽想が登場する。ア・テンポ・メノモッソでピアノが奏する弾むようなリズムにのせて、曲はもりあがりクライマックスを形成する。続いて静かな楽想にうつり、断片的な旋律がおり重なりながら徐々に発展をみせていく。コーダではこれまでのさまざまな要素が再現、変形されながら、最後は勢いよく曲を閉じる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアのピアニスト、作曲家、指揮者。苦学してモスクワ音楽院のピアノ科と作曲科を通常より1年早く卒業。特に作曲は大金章という最高成績を受けた。1892年、卒業後すぐに出版した前奏曲嬰ハ短調は、さっそく人気の作品となった。が、交響曲第1番の不評が原因で一時作曲を断念する。1902年、ピアノ協奏曲第2番を自ら初演して表舞台に返り咲き、劇場で指揮者を務めた後、06年にドレスデンに移ってからしばらくは作曲に専念した。09年に渡米、自作を演奏するピアニストとして名声を高めた。ロシア革命の混乱をかわしつつヨーロッパとアメリカで演奏活動を行い、20年代後半はヨーロッパにとどまろうと努力したが、31年にソヴィエト連邦の体制を批判したため、政府はかれの作品の上演を禁止した(これは2年ほどで解除された))。晩年は新たな戦争への危機感からアメリカへ戻った。
ラフマニノフはピアノ演奏、指揮、作曲のいずれにおいても成功を収めたが、すべてに同時に打ち込むことには困難を感じていた。後半生の演奏活動は作曲への集中力を妨げたのか、傑作は初期に多い。
ラフマニノフは、ピアノという楽器の可能性を最大限に引き出すことを追求しつづけた。 驚異的な演奏技術、人並みはずれた大きな手を持っていたと言われるが、自身のピアノ曲では技巧に終始するのではなく、哀愁や情熱を宿した美しい旋律を楽曲へと堅実に組み立てる方法を知っていた。チャイコフスキーを規範とし、あくまで長短調の枠にとどまって後期ロマン派の色彩と叙情性を継承している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
旧ソヴィエト連邦出身のピアニスト・指揮者。ヘブライ語の姓(「ドイツ人」の意)が示す通り父方はユダヤ系だが、母は非ユダヤ系のロシア人である。
1937年にロシアのゴーリキー生まれた。1955年にはワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクールに出場し2位に輝いた。この時にアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことはよく知られている。
最近はN響などの音楽監督(指揮者)としても活躍中だが、ピアニストしても現在でも一流の演奏家。