スクリャービン 前奏曲Op.11-5 ニ長調 動画集 | Mボックス

Music video

スクリャービン 前奏曲Op.11-5 ニ長調 動画集

スクリャービン 前奏曲 Op.11 第5曲 ニ長調の動画集です。

スクリャービン 前奏曲 Op.11-5 ニ長調

スクリャービン 24の前奏曲 作品11
第5曲 ニ長調

SCRIABIN 24 Preludes Op.11
No.5 in D major

スクリャービンの前奏曲 Op.11-5 ニ長調です。
●スクリャービン 前奏曲の動画集一覧はこちら
●スクリャービン 全ての動画集一覧はこちら

アルバム収録曲一覧

1. 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調 / スクリャービン,アレクサンドル / 岩野 めぐみ

音源:DVD「名古屋市民芸術祭2004 岩野めぐみ ピアノリサイタル Vol.6 ~ロマンティックな美しさを求めて ロシアの作曲家達~」 より 「ピティナ・ピアノ曲事典」より

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調

スクリャービンが若い頃に傾倒していた作曲家にならい、平行調の組み合わせによって5度圏をめぐる構成となっている。24曲はまとめて作曲されたわけではない。1895年とその翌年の二度にわたる西欧旅行の際に作曲されたものと、それ以前に作曲されていたものとが編みあわされている。楽譜は、1897年に6曲ずつの分冊の形で出版された。

第5曲目 ニ長調 2分の4拍子 アンダンテ・カンタービレ。2度目の西欧旅行中に作曲された。スクリャービンが24歳の時の作品である。息の長いメロディーに、たゆたうような伴奏のラインが付けられている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - スクリャービン,アレクサンドル

ロシアの作曲家、ピアニスト。10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法を編み出した。1900年ごろから神智学に傾倒し「神秘和音」という独自の響きを用いた楽曲を作曲した。

音を聴くと色が見える「色聴感覚」保持者としても有名。

演奏家解説 - 岩野 めぐみ

日本のピアニスト。桐朋大学音楽学部ピアノ演奏学科卒業。ウィーン国立音楽大学大学院修士課程修了。MAGISTRA DER KUNSTE」(芸術修士)の称号を取得。現在ソロ演奏活動他、声楽、室内楽の伴奏ピアニストのほか、PTNAピアノコンペティション、ヤマハ(YPF)ピアノフェスティバル、クラシック音楽コンクールなどの審査員を務めている。 全日本ピアノ指導者協会正会員。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より

2. 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調 / スクリャービン,アレクサンドル / エッカードシュタイン,セヴェリン・フォン

柔らかく澄んだ音色、表情豊かな美しい演奏です。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調

スクリャービンが若い頃に傾倒していた作曲家にならい、平行調の組み合わせによって5度圏をめぐる構成となっている。24曲はまとめて作曲されたわけではない。1895年とその翌年の二度にわたる西欧旅行の際に作曲されたものと、それ以前に作曲されていたものとが編みあわされている。楽譜は、1897年に6曲ずつの分冊の形で出版された。

第5曲目 ニ長調 2分の4拍子 アンダンテ・カンタービレ。2度目の西欧旅行中に作曲された。スクリャービンが24歳の時の作品である。息の長いメロディーに、たゆたうような伴奏のラインが付けられている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - スクリャービン,アレクサンドル

ロシアの作曲家、ピアニスト。10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法を編み出した。1900年ごろから神智学に傾倒し「神秘和音」という独自の響きを用いた楽曲を作曲した。

音を聴くと色が見える「色聴感覚」保持者としても有名。

演奏家解説 - エッカードシュタイン,セヴェリン・フォン

ドイツのピアニスト。1978年デュッセルドルフに生まれる。6歳でピアノを始め、12歳でデュッセルドルフ国立音大のジュニア生徒として入学を許可される。2002年6月にベルリン芸術大学ディプロマを取得した。その後イタリアのコモ湖国際ピアノアカデミーにて研鑚を続けた。数々の国際コンクールで優秀な成績をおさめ、1998年ベルリン・アルトゥール・シュナーベルコンクール第1位、同年ブゾーニ国際コンクール入賞、1999年のミュンヘン国際コンクール(ARD)第2位、2000年リーズ国際コンクール第3位及び現代作品における特別賞を受賞、ファイナルでサー・サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団と共演。2003年6月、エリーザベト王妃国際コンクールピアノ部門で優勝、ファビオラ女王賞に輝く。現在ヨーロッパ各地、アジア、北米等で演奏活動を行い、各地の交響楽団との共演、主要な音楽祭にも招かれている。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より

3. 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調 / スクリャービン,アレクサンドル / 須藤 千晴

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調

スクリャービンが若い頃に傾倒していた作曲家にならい、平行調の組み合わせによって5度圏をめぐる構成となっている。24曲はまとめて作曲されたわけではない。1895年とその翌年の二度にわたる西欧旅行の際に作曲されたものと、それ以前に作曲されていたものとが編みあわされている。楽譜は、1897年に6曲ずつの分冊の形で出版された。

第5曲目 ニ長調 2分の4拍子 アンダンテ・カンタービレ。2度目の西欧旅行中に作曲された。スクリャービンが24歳の時の作品である。息の長いメロディーに、たゆたうような伴奏のラインが付けられている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - スクリャービン,アレクサンドル

ロシアの作曲家、ピアニスト。10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法を編み出した。1900年ごろから神智学に傾倒し「神秘和音」という独自の響きを用いた楽曲を作曲した。

音を聴くと色が見える「色聴感覚」保持者としても有名。

演奏家解説 - 須藤 千晴

日本のピアニスト。東京藝術大学音楽学部器楽科卒業。ドイツ国立ベルリン音楽大学に留学し最高点を得て卒業。ディプロマを取得し日本へ帰国。
ジーナバックアウワー、ザイラー、ベルリンピアノコンクールなど多くの国際コンクールで入賞。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より

4. 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調 / スクリャービン,アレクサンドル / ペルヴェツ・モディ

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調

スクリャービンが若い頃に傾倒していた作曲家にならい、平行調の組み合わせによって5度圏をめぐる構成となっている。24曲はまとめて作曲されたわけではない。1895年とその翌年の二度にわたる西欧旅行の際に作曲されたものと、それ以前に作曲されていたものとが編みあわされている。楽譜は、1897年に6曲ずつの分冊の形で出版された。

第5曲目 ニ長調 2分の4拍子 アンダンテ・カンタービレ。2度目の西欧旅行中に作曲された。スクリャービンが24歳の時の作品である。息の長いメロディーに、たゆたうような伴奏のラインが付けられている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - スクリャービン,アレクサンドル

ロシアの作曲家、ピアニスト。10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法を編み出した。1900年ごろから神智学に傾倒し「神秘和音」という独自の響きを用いた楽曲を作曲した。

音を聴くと色が見える「色聴感覚」保持者としても有名。

5. 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調 / スクリャービン,アレクサンドル / ソフロニツキー,ヴラディーミル

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調

スクリャービンが若い頃に傾倒していた作曲家にならい、平行調の組み合わせによって5度圏をめぐる構成となっている。24曲はまとめて作曲されたわけではない。1895年とその翌年の二度にわたる西欧旅行の際に作曲されたものと、それ以前に作曲されていたものとが編みあわされている。楽譜は、1897年に6曲ずつの分冊の形で出版された。

第5曲目 ニ長調 2分の4拍子 アンダンテ・カンタービレ。2度目の西欧旅行中に作曲された。スクリャービンが24歳の時の作品である。息の長いメロディーに、たゆたうような伴奏のラインが付けられている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - スクリャービン,アレクサンドル

ロシアの作曲家、ピアニスト。10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法を編み出した。1900年ごろから神智学に傾倒し「神秘和音」という独自の響きを用いた楽曲を作曲した。

音を聴くと色が見える「色聴感覚」保持者としても有名。

演奏家解説 - ソフロニツキー,ヴラディーミル

アレクサンドル・スクリャービンの信奉者にしてその演奏様式の継承者であり、その遺児エレーナと結婚した。妻エレナと初めて出逢った時にはスクリャービンは鬼籍に入っていたため、ソフロニツキーは公的にも私的にも、生前に岳父と知り合うことはなかった。しかしながらスクリャービン未亡人ヴェーラによって、スクリャービンの後期作品の最も正統的な演奏家として認められた。ソフロニツキーの演奏は、即興的でニュアンスに富んだ雰囲気と、軽く柔らかいタッチにおいてスクリャービン本人の演奏の特色を受け継いでおり、実際にソフロニツキーによるスクリャービン作品の録音は、比類ない演奏として多くから認められている。他にはショパンにも近親感を感じていたらしい。

6. 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調 / スクリャービン,アレクサンドル / プレトニョフ,ミハイル

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調

スクリャービンが若い頃に傾倒していた作曲家にならい、平行調の組み合わせによって5度圏をめぐる構成となっている。24曲はまとめて作曲されたわけではない。1895年とその翌年の二度にわたる西欧旅行の際に作曲されたものと、それ以前に作曲されていたものとが編みあわされている。楽譜は、1897年に6曲ずつの分冊の形で出版された。

第5曲目 ニ長調 2分の4拍子 アンダンテ・カンタービレ。2度目の西欧旅行中に作曲された。スクリャービンが24歳の時の作品である。息の長いメロディーに、たゆたうような伴奏のラインが付けられている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - スクリャービン,アレクサンドル

ロシアの作曲家、ピアニスト。10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法を編み出した。1900年ごろから神智学に傾倒し「神秘和音」という独自の響きを用いた楽曲を作曲した。

音を聴くと色が見える「色聴感覚」保持者としても有名。

演奏家解説 - プレトニョフ,ミハイル

ロシアのピアニスト・指揮者。1978年にチャイコフスキー国際コンクールで金メダルを獲得し、国際的な注目を浴びるようになる。幅広いレパートリーを持つ。自分はヴィルトゥオーソではないとたびたび発言している。

7. 5つの前奏曲 作品15-1 / スクリャービン,アレクサンドル / ソフロニツキー,ヴラディーミル

スクリャービンの演奏様式の継承者といわれているソフロニツキーの演奏です。1960年モスクワでのライブ演奏です。

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - 5つの前奏曲 作品15-1

イ長調 4分の3拍子 アンダンテ
 23歳の時にモスクワで作曲された。左手の8分音符に対して、右手が3連音符と5連音符を交互に弾くポリ・リズムの曲。終結部分では、4分の2拍子と4分の3拍子を交互に用いる他、リタルランド、アッチェレランド、ア・テンポを組み合わせ、歩調の変化を生み出している。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - スクリャービン,アレクサンドル

ロシアの作曲家、ピアニスト。10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法を編み出した。1900年ごろから神智学に傾倒し「神秘和音」という独自の響きを用いた楽曲を作曲した。

音を聴くと色が見える「色聴感覚」保持者としても有名。

演奏家解説 - ソフロニツキー,ヴラディーミル

アレクサンドル・スクリャービンの信奉者にしてその演奏様式の継承者であり、その遺児エレーナと結婚した。妻エレナと初めて出逢った時にはスクリャービンは鬼籍に入っていたため、ソフロニツキーは公的にも私的にも、生前に岳父と知り合うことはなかった。しかしながらスクリャービン未亡人ヴェーラによって、スクリャービンの後期作品の最も正統的な演奏家として認められた。ソフロニツキーの演奏は、即興的でニュアンスに富んだ雰囲気と、軽く柔らかいタッチにおいてスクリャービン本人の演奏の特色を受け継いでおり、実際にソフロニツキーによるスクリャービン作品の録音は、比類ない演奏として多くから認められている。他にはショパンにも近親感を感じていたらしい。

8. 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調 / スクリャービン,アレクサンドル / ジーナ・バッカウアー

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調

スクリャービンが若い頃に傾倒していた作曲家にならい、平行調の組み合わせによって5度圏をめぐる構成となっている。24曲はまとめて作曲されたわけではない。1895年とその翌年の二度にわたる西欧旅行の際に作曲されたものと、それ以前に作曲されていたものとが編みあわされている。楽譜は、1897年に6曲ずつの分冊の形で出版された。

第5曲目 ニ長調 2分の4拍子 アンダンテ・カンタービレ。2度目の西欧旅行中に作曲された。スクリャービンが24歳の時の作品である。息の長いメロディーに、たゆたうような伴奏のラインが付けられている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - スクリャービン,アレクサンドル

ロシアの作曲家、ピアニスト。10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法を編み出した。1900年ごろから神智学に傾倒し「神秘和音」という独自の響きを用いた楽曲を作曲した。

音を聴くと色が見える「色聴感覚」保持者としても有名。

演奏家解説 - ジーナ・バッカウアー

アテネ音楽院でウォルダマール・フリーマンに師事しながら、両親の希望にしたがってアテネ大学で法律を学んだ。その後、パリのエコール・ノルマル・ド・ミュージックでコルトーに師事し、また1933年から2年間ラフマニノフにも師事している。1935年にミトロプーロスの指揮でアテネでデビューを果たし、亡くなるまでに600回以上の演奏会を開いており、第二次世界大戦中に中東において催された連合国軍のための慰安演奏会もそのうちに含まれる。ギリシャ王女イリニのピアノ教師でもあった。

9. 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調 / スクリャービン,アレクサンドル / ザラフィアンツ,エフゲニー

楽譜と共に

この曲の詳細を見る ▼
楽曲解説 - 24の前奏曲 作品11 第5曲 ニ長調

スクリャービンが若い頃に傾倒していた作曲家にならい、平行調の組み合わせによって5度圏をめぐる構成となっている。24曲はまとめて作曲されたわけではない。1895年とその翌年の二度にわたる西欧旅行の際に作曲されたものと、それ以前に作曲されていたものとが編みあわされている。楽譜は、1897年に6曲ずつの分冊の形で出版された。

第5曲目 ニ長調 2分の4拍子 アンダンテ・カンタービレ。2度目の西欧旅行中に作曲された。スクリャービンが24歳の時の作品である。息の長いメロディーに、たゆたうような伴奏のラインが付けられている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より

作曲家解説 - スクリャービン,アレクサンドル

ロシアの作曲家、ピアニスト。10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法を編み出した。1900年ごろから神智学に傾倒し「神秘和音」という独自の響きを用いた楽曲を作曲した。

音を聴くと色が見える「色聴感覚」保持者としても有名。

演奏家解説 - ザラフィアンツ,エフゲニー

ロシアのピアニスト。ロシア共和国のノヴォシビルスクに生まれる。音楽家の両親のもとで育つ。オルスク音楽院を首席で卒業、グリンカ音楽院を首席卒業、同大学院でも研鑚を重ねている。1993年ポゴレリッチ国際コンクールで第2位。その後住居をクロアチア共和国に構え、ドイツや日本を中心に演奏活動を行っている。

「ピティナ・ピアノ曲事典」より