チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 第1楽章の動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
1874年から、チャイコフスキーは全力をかけてこの協奏曲の作曲にとりかかった。
この曲はもともと、友人のニコライ・ルービンシテインに献呈されるはずであった。ところが最初にこの曲をニコライにきかせたとき、彼はこの曲の出来をひどくこきおろし、書きかえなければこれを演奏しないと言ったそうだ。自尊心を傷つけられ腹をたてたチャイコフスキーはこれを断り、そのままの形で譜面を印刷することを宣言した。
結局チャイコフスキーはこれを改めて仕上げ、名ピアニスト兼指揮者、ハンス・フォン・ビューローに献呈した。1875年、ビューローはボストンにて初演し、大成功をおさめた。
また、モスクワでの初演は、ニコライ・ルビンシテインの指揮によって行われ、その後、ニコライ自身も、この曲のソリストとして、作品の普及に努めている。
1879年と1888年に、二度にわたって改訂がなされている。
全3楽章からなる。全体に協奏曲の伝統的な形式にとらわれることなく、自由な形で作曲されている。現在も、数あるピアノ協奏曲の中で極めて人気の高い一曲であろう。
第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ・エ・モルト・マエストーソ―アレグロ・コン・スピリート:ソナタ形式。冒頭に雄大な序奏があるが、この始めの部分でピアノが鐘のように重い和音を弾き鳴らし、その背後で第一ヴァイオリンとチェロが、主題を奏でる。これがこの楽章で中心的な主題になる。第一主題は変ロ短調、おどけたようなリズム旋律が鼻歌のように歌われる。この旋律はウクライナで耳にした民謡からとられたといわれている。第2主題は抒情的で、力強い発展をみせる。展開部では、ピアノと管弦楽が対等に渡り合い、それぞれの主題が絡みをみせながら、圧倒的なエネルギーをもって協奏される。繊細な表情に富んだ再現部は雄大なカデンツァへ。ピアノのきかせどころである。終結部では最後に向けて再び大きな盛り上がりをみせ、堂々と曲を閉じる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアの作曲家。家族に職業音楽家はいないが、父がフルートを演奏し、母もピアノを弾くなど音楽的な素養があった。1859年から法務省の官吏になるが63年には辞職。このころ新設されたペテルブルク音楽院に所属。卒業後、モスクワ音楽院の講師となった。1870年代は結婚(1877年)の失敗から精神的に不安定となるなど危機的な状況も迎えた。しかし創作力は旺盛で、傑作が生み出されて名声をもたらした。1880年代には皇帝一家との交流もあり、社会的地位を堅固なものとした。93年、交響曲第6番の初演直後に死去した。死因は一般的にはコレラとされているが、同性愛の発覚を恐れての自殺などという説もある。チャイコフスキー作品でよく知られているのは交響曲やバレエ音楽などの管弦楽作品が中心で、有名なピアノ曲は少ない。その中でピアノ協奏曲第1番は、このジャンル中有数の人気曲として極めて高い人気を持っている。「四季」や「子供のためのアルバム」などの小品集、「ドゥムカ」が比較的演奏頻度が高い。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。2009年、第3回ベーテンピアノコンクール中学生部門全国大会第1位。2010年、第20回日本クラシック音楽コンクール中学生部門全国大会第3位。第34回ピティナ・ピアノコンペティション全国決勝大会Jr.G級ベスト賞。2011年、第35回ピティナ・ピアノコンペティション全国決勝大会G級ベスト賞。2013年、第37回ピティナ・ピアノコンペティション特級銀賞。現在、東京藝術大学在学中。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
2010 コンペティション決勝/2010 PTNA Piano Competition
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
1874年から、チャイコフスキーは全力をかけてこの協奏曲の作曲にとりかかった。
この曲はもともと、友人のニコライ・ルービンシテインに献呈されるはずであった。ところが最初にこの曲をニコライにきかせたとき、彼はこの曲の出来をひどくこきおろし、書きかえなければこれを演奏しないと言ったそうだ。自尊心を傷つけられ腹をたてたチャイコフスキーはこれを断り、そのままの形で譜面を印刷することを宣言した。
結局チャイコフスキーはこれを改めて仕上げ、名ピアニスト兼指揮者、ハンス・フォン・ビューローに献呈した。1875年、ビューローはボストンにて初演し、大成功をおさめた。
また、モスクワでの初演は、ニコライ・ルビンシテインの指揮によって行われ、その後、ニコライ自身も、この曲のソリストとして、作品の普及に努めている。
1879年と1888年に、二度にわたって改訂がなされている。
全3楽章からなる。全体に協奏曲の伝統的な形式にとらわれることなく、自由な形で作曲されている。現在も、数あるピアノ協奏曲の中で極めて人気の高い一曲であろう。
第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ・エ・モルト・マエストーソ―アレグロ・コン・スピリート:ソナタ形式。冒頭に雄大な序奏があるが、この始めの部分でピアノが鐘のように重い和音を弾き鳴らし、その背後で第一ヴァイオリンとチェロが、主題を奏でる。これがこの楽章で中心的な主題になる。第一主題は変ロ短調、おどけたようなリズム旋律が鼻歌のように歌われる。この旋律はウクライナで耳にした民謡からとられたといわれている。第2主題は抒情的で、力強い発展をみせる。展開部では、ピアノと管弦楽が対等に渡り合い、それぞれの主題が絡みをみせながら、圧倒的なエネルギーをもって協奏される。繊細な表情に富んだ再現部は雄大なカデンツァへ。ピアノのきかせどころである。終結部では最後に向けて再び大きな盛り上がりをみせ、堂々と曲を閉じる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアの作曲家。家族に職業音楽家はいないが、父がフルートを演奏し、母もピアノを弾くなど音楽的な素養があった。1859年から法務省の官吏になるが63年には辞職。このころ新設されたペテルブルク音楽院に所属。卒業後、モスクワ音楽院の講師となった。1870年代は結婚(1877年)の失敗から精神的に不安定となるなど危機的な状況も迎えた。しかし創作力は旺盛で、傑作が生み出されて名声をもたらした。1880年代には皇帝一家との交流もあり、社会的地位を堅固なものとした。93年、交響曲第6番の初演直後に死去した。死因は一般的にはコレラとされているが、同性愛の発覚を恐れての自殺などという説もある。チャイコフスキー作品でよく知られているのは交響曲やバレエ音楽などの管弦楽作品が中心で、有名なピアノ曲は少ない。その中でピアノ協奏曲第1番は、このジャンル中有数の人気曲として極めて高い人気を持っている。「四季」や「子供のためのアルバム」などの小品集、「ドゥムカ」が比較的演奏頻度が高い。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
1990年静岡県掛川市生まれ。
2018年第10回浜松国際ピアノコンクール第4位及び2016年エリザベート王妃国際音楽コンクール(ベルギー・ブリュッセル)にてファイナリスト入賞。その他若い音楽家のためのクライネフ国際ピアノコンクール第2位(ウクライナ・ハリコフ)、全日本学生音楽コンクール高校生の部全国大会第1位、日本音楽コンクール第2位、ピティナ・ピアノコンペティション特級銀賞、東京音楽コンクール第2位をはじめ国内外のコンクールで優勝、入賞。
これまでにマリン・オールソップ指揮ベルギー国立管弦楽団、ポール・メイエ指揮王立ワロン室内管弦楽団、クラウディオ・クルス指揮リベイラン・プレート交響楽団(ブラジル)、クラウディオ・クルス指揮サンパウロ青少年交響楽団、ロッセン・ゲルゴフ指揮読売日本交響楽団、高関健指揮東京交響楽団、本名徹次指揮日本フィルハーモニー交響楽団ほか海外及び国内のオーケストラと共演多数。リサイタルを日本国内及びフランス、ベルギー、ドイツ、ブラジル、アゼルバイジャン、英国にて行う。ブリュッセル・ピアノ・フェスティバルや横浜市招待国際演奏会等の著名な音楽祭に出演。
2008年度(財)ヤマハ音楽振興会音楽支援奨学生
2011年、2014年度公益財団法人ロームミュージックファンデーション奨学生
2013年度宗次エンジェル基金/新進演奏家国内奨学金奨学生
2017年芸術・文化、若い芽を育てる会奨励賞。明治安田クオリティオブライフ奨学金奨学生。
2018年ベルギーショパン協会賞受賞
東京藝術大学附属音楽高等学校を経て東京藝術大学を卒業。2014年9月に英国王立音楽大学修士課程に奨学生として入学し2016年7月に優秀な成績で卒業。2017年3月に東京藝術大学大学院修士課程を卒業修了時に大学院アカンサス音楽賞及び藝大クラヴィーア賞を受賞。ライプツィヒ演劇音楽大学演奏家課程を2020年11月に修了。これまでにピアノを三好のびこ、故堀江孝子、クラウディオ・ソアレス、伊藤恵、ドミトリー・アレクセイエフ、ルーステム・サイトクーロフ、ゲラルド・ファウトの各氏に師事
ピティナ・ピアノ曲辞典より
1990年チャイコフスキーコンクールでのライブ映像。貴重です。 因みに、この年ベレゾフスキーはこの演奏で1位に輝きました。
1874年から、チャイコフスキーは全力をかけてこの協奏曲の作曲にとりかかった。
この曲はもともと、友人のニコライ・ルービンシテインに献呈されるはずであった。ところが最初にこの曲をニコライにきかせたとき、彼はこの曲の出来をひどくこきおろし、書きかえなければこれを演奏しないと言ったそうだ。自尊心を傷つけられ腹をたてたチャイコフスキーはこれを断り、そのままの形で譜面を印刷することを宣言した。
結局チャイコフスキーはこれを改めて仕上げ、名ピアニスト兼指揮者、ハンス・フォン・ビューローに献呈した。1875年、ビューローはボストンにて初演し、大成功をおさめた。
また、モスクワでの初演は、ニコライ・ルビンシテインの指揮によって行われ、その後、ニコライ自身も、この曲のソリストとして、作品の普及に努めている。
1879年と1888年に、二度にわたって改訂がなされている。
全3楽章からなる。全体に協奏曲の伝統的な形式にとらわれることなく、自由な形で作曲されている。現在も、数あるピアノ協奏曲の中で極めて人気の高い一曲であろう。
第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ・エ・モルト・マエストーソ―アレグロ・コン・スピリート:ソナタ形式。冒頭に雄大な序奏があるが、この始めの部分でピアノが鐘のように重い和音を弾き鳴らし、その背後で第一ヴァイオリンとチェロが、主題を奏でる。これがこの楽章で中心的な主題になる。第一主題は変ロ短調、おどけたようなリズム旋律が鼻歌のように歌われる。この旋律はウクライナで耳にした民謡からとられたといわれている。第2主題は抒情的で、力強い発展をみせる。展開部では、ピアノと管弦楽が対等に渡り合い、それぞれの主題が絡みをみせながら、圧倒的なエネルギーをもって協奏される。繊細な表情に富んだ再現部は雄大なカデンツァへ。ピアノのきかせどころである。終結部では最後に向けて再び大きな盛り上がりをみせ、堂々と曲を閉じる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアの作曲家。家族に職業音楽家はいないが、父がフルートを演奏し、母もピアノを弾くなど音楽的な素養があった。1859年から法務省の官吏になるが63年には辞職。このころ新設されたペテルブルク音楽院に所属。卒業後、モスクワ音楽院の講師となった。1870年代は結婚(1877年)の失敗から精神的に不安定となるなど危機的な状況も迎えた。しかし創作力は旺盛で、傑作が生み出されて名声をもたらした。1880年代には皇帝一家との交流もあり、社会的地位を堅固なものとした。93年、交響曲第6番の初演直後に死去した。死因は一般的にはコレラとされているが、同性愛の発覚を恐れての自殺などという説もある。チャイコフスキー作品でよく知られているのは交響曲やバレエ音楽などの管弦楽作品が中心で、有名なピアノ曲は少ない。その中でピアノ協奏曲第1番は、このジャンル中有数の人気曲として極めて高い人気を持っている。「四季」や「子供のためのアルバム」などの小品集、「ドゥムカ」が比較的演奏頻度が高い。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
モスクワ出身のロシアのピアニスト。1990年チャイコフスキーコンクールで第1位に輝き、演奏のキャリアが始まった。
指揮はパーヴォ・ヤルヴィ
1874年から、チャイコフスキーは全力をかけてこの協奏曲の作曲にとりかかった。
この曲はもともと、友人のニコライ・ルービンシテインに献呈されるはずであった。ところが最初にこの曲をニコライにきかせたとき、彼はこの曲の出来をひどくこきおろし、書きかえなければこれを演奏しないと言ったそうだ。自尊心を傷つけられ腹をたてたチャイコフスキーはこれを断り、そのままの形で譜面を印刷することを宣言した。
結局チャイコフスキーはこれを改めて仕上げ、名ピアニスト兼指揮者、ハンス・フォン・ビューローに献呈した。1875年、ビューローはボストンにて初演し、大成功をおさめた。
また、モスクワでの初演は、ニコライ・ルビンシテインの指揮によって行われ、その後、ニコライ自身も、この曲のソリストとして、作品の普及に努めている。
1879年と1888年に、二度にわたって改訂がなされている。
全3楽章からなる。全体に協奏曲の伝統的な形式にとらわれることなく、自由な形で作曲されている。現在も、数あるピアノ協奏曲の中で極めて人気の高い一曲であろう。
第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ・エ・モルト・マエストーソ―アレグロ・コン・スピリート:ソナタ形式。冒頭に雄大な序奏があるが、この始めの部分でピアノが鐘のように重い和音を弾き鳴らし、その背後で第一ヴァイオリンとチェロが、主題を奏でる。これがこの楽章で中心的な主題になる。第一主題は変ロ短調、おどけたようなリズム旋律が鼻歌のように歌われる。この旋律はウクライナで耳にした民謡からとられたといわれている。第2主題は抒情的で、力強い発展をみせる。展開部では、ピアノと管弦楽が対等に渡り合い、それぞれの主題が絡みをみせながら、圧倒的なエネルギーをもって協奏される。繊細な表情に富んだ再現部は雄大なカデンツァへ。ピアノのきかせどころである。終結部では最後に向けて再び大きな盛り上がりをみせ、堂々と曲を閉じる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアの作曲家。家族に職業音楽家はいないが、父がフルートを演奏し、母もピアノを弾くなど音楽的な素養があった。1859年から法務省の官吏になるが63年には辞職。このころ新設されたペテルブルク音楽院に所属。卒業後、モスクワ音楽院の講師となった。1870年代は結婚(1877年)の失敗から精神的に不安定となるなど危機的な状況も迎えた。しかし創作力は旺盛で、傑作が生み出されて名声をもたらした。1880年代には皇帝一家との交流もあり、社会的地位を堅固なものとした。93年、交響曲第6番の初演直後に死去した。死因は一般的にはコレラとされているが、同性愛の発覚を恐れての自殺などという説もある。チャイコフスキー作品でよく知られているのは交響曲やバレエ音楽などの管弦楽作品が中心で、有名なピアノ曲は少ない。その中でピアノ協奏曲第1番は、このジャンル中有数の人気曲として極めて高い人気を持っている。「四季」や「子供のためのアルバム」などの小品集、「ドゥムカ」が比較的演奏頻度が高い。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
中国遼寧省瀋陽出身のピアニスト。1999年、17歳のとき突破口が訪れる。ラヴィニア音楽祭のガラ・コンサートで、急病の先輩ピアニストの代理として、チャイコフスキーの《ピアノ協奏曲 第1番》を、見事に演奏した。これがシカゴ・トリビューン紙によって、将来の嘱望される何年かに一人の逸材と評価された。2008年8月8日、北京オリンピックの開会式において、中国の作曲家・葉小綱の協奏曲を演奏した。映画『のだめカンタービレ最終楽章』の野田恵役の上野樹里のピアノ演奏をすべて担当している。
共演はベルリンフィル
1874年から、チャイコフスキーは全力をかけてこの協奏曲の作曲にとりかかった。
この曲はもともと、友人のニコライ・ルービンシテインに献呈されるはずであった。ところが最初にこの曲をニコライにきかせたとき、彼はこの曲の出来をひどくこきおろし、書きかえなければこれを演奏しないと言ったそうだ。自尊心を傷つけられ腹をたてたチャイコフスキーはこれを断り、そのままの形で譜面を印刷することを宣言した。
結局チャイコフスキーはこれを改めて仕上げ、名ピアニスト兼指揮者、ハンス・フォン・ビューローに献呈した。1875年、ビューローはボストンにて初演し、大成功をおさめた。
また、モスクワでの初演は、ニコライ・ルビンシテインの指揮によって行われ、その後、ニコライ自身も、この曲のソリストとして、作品の普及に努めている。
1879年と1888年に、二度にわたって改訂がなされている。
全3楽章からなる。全体に協奏曲の伝統的な形式にとらわれることなく、自由な形で作曲されている。現在も、数あるピアノ協奏曲の中で極めて人気の高い一曲であろう。
第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ・エ・モルト・マエストーソ―アレグロ・コン・スピリート:ソナタ形式。冒頭に雄大な序奏があるが、この始めの部分でピアノが鐘のように重い和音を弾き鳴らし、その背後で第一ヴァイオリンとチェロが、主題を奏でる。これがこの楽章で中心的な主題になる。第一主題は変ロ短調、おどけたようなリズム旋律が鼻歌のように歌われる。この旋律はウクライナで耳にした民謡からとられたといわれている。第2主題は抒情的で、力強い発展をみせる。展開部では、ピアノと管弦楽が対等に渡り合い、それぞれの主題が絡みをみせながら、圧倒的なエネルギーをもって協奏される。繊細な表情に富んだ再現部は雄大なカデンツァへ。ピアノのきかせどころである。終結部では最後に向けて再び大きな盛り上がりをみせ、堂々と曲を閉じる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ロシアの作曲家。家族に職業音楽家はいないが、父がフルートを演奏し、母もピアノを弾くなど音楽的な素養があった。1859年から法務省の官吏になるが63年には辞職。このころ新設されたペテルブルク音楽院に所属。卒業後、モスクワ音楽院の講師となった。1870年代は結婚(1877年)の失敗から精神的に不安定となるなど危機的な状況も迎えた。しかし創作力は旺盛で、傑作が生み出されて名声をもたらした。1880年代には皇帝一家との交流もあり、社会的地位を堅固なものとした。93年、交響曲第6番の初演直後に死去した。死因は一般的にはコレラとされているが、同性愛の発覚を恐れての自殺などという説もある。チャイコフスキー作品でよく知られているのは交響曲やバレエ音楽などの管弦楽作品が中心で、有名なピアノ曲は少ない。その中でピアノ協奏曲第1番は、このジャンル中有数の人気曲として極めて高い人気を持っている。「四季」や「子供のためのアルバム」などの小品集、「ドゥムカ」が比較的演奏頻度が高い。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
アルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。1955年、アルゲリッチの演奏を聴いたフアン・ペロン大統領は、彼女に優れた音楽教育を受けさせるため、外交官であった彼女の父親にウィーン赴任を命じたほどの才能を示していた。家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。1969年、シャルル・デュトワと結婚し(2度目)、娘をもうけるが、来日の際に夫婦喧嘩となり、アルゲリッチだけが帰国し離婚した逸話もある。後にピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。
ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり室内楽に活動の幅を広げる。ヴァイオリニストのクレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。
1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。1998年から別府アルゲリッチ音楽祭、1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール、2001年からブエノスアイレス-マルタ・アルゲリッチ音楽祭、2002年からルガーノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。