チャイコフスキー バレエ組曲《くるみ割り人形》 第1曲 小序曲(2台ピアノ版)の動画集です。
2台ピアノ版
ロシアの作曲家。家族に職業音楽家はいないが、父がフルートを演奏し、母もピアノを弾くなど音楽的な素養があった。1859年から法務省の官吏になるが63年には辞職。このころ新設されたペテルブルク音楽院に所属。卒業後、モスクワ音楽院の講師となった。1870年代は結婚(1877年)の失敗から精神的に不安定となるなど危機的な状況も迎えた。しかし創作力は旺盛で、傑作が生み出されて名声をもたらした。1880年代には皇帝一家との交流もあり、社会的地位を堅固なものとした。93年、交響曲第6番の初演直後に死去した。死因は一般的にはコレラとされているが、同性愛の発覚を恐れての自殺などという説もある。チャイコフスキー作品でよく知られているのは交響曲やバレエ音楽などの管弦楽作品が中心で、有名なピアノ曲は少ない。その中でピアノ協奏曲第1番は、このジャンル中有数の人気曲として極めて高い人気を持っている。「四季」や「子供のためのアルバム」などの小品集、「ドゥムカ」が比較的演奏頻度が高い。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
アルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。1955年、アルゲリッチの演奏を聴いたフアン・ペロン大統領は、彼女に優れた音楽教育を受けさせるため、外交官であった彼女の父親にウィーン赴任を命じたほどの才能を示していた。家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。1969年、シャルル・デュトワと結婚し(2度目)、娘をもうけるが、来日の際に夫婦喧嘩となり、アルゲリッチだけが帰国し離婚した逸話もある。後にピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。
ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり室内楽に活動の幅を広げる。ヴァイオリニストのクレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。
1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。1998年から別府アルゲリッチ音楽祭、1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール、2001年からブエノスアイレス-マルタ・アルゲリッチ音楽祭、2002年からルガーノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。