メンデルスゾーン 無言歌集 Op.67 第2曲 嬰へ短調 失われた幻影の動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ワーグナーが「第一級の風景画家」と言ったように、メンデルスゾーンは情景描写や標題音楽の作曲において才能を発揮している。この“言葉のない歌曲”、「無言歌」、という形でメンデルスゾーンは心象風景や感情描写までも、表現した。歌曲風の旋律をもった器楽曲であるため、旋律線をはっきりと浮き立たせ、抒情的に演奏することが重要だろう。メンデルスゾーンが活躍したこの時期、ブルジョアジーの家庭を中心に、ピアノが教養として普及した。そのため、家庭で気楽に弾ける作品が多く作られたが、この《無言歌集》もその一つである。《無言歌集》は各6曲ずつの計8集からなり、生前に出版されたのは、第6集までである。第7集は、1851年、第8集は1867年に出版された。1832年、第1集を出版したときには、メンデルスゾーンは、《ピアノのためのメロディー》と記しており、《無言歌集》の名称をもつようになったのは1835年に第2集を出版してからのことであった。標題をもっているものが多いが、作曲者自身によってつけられたものはわずかである。実際、メンデルスゾーンは標題をつけることによって、音楽的な想像力が限定されることを嫌っていたようだ。
第6巻 Op.67。この6曲中には、メンデルスゾーンによってつけられた標題はない。
2.嬰ヘ短調「失われた幻影」 / op.67-2 (1845)。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ドイツロマン派の作曲家。ベルリンの富裕なユダヤ系の銀行家に生まれた。姉も音楽家となった。フェーリクスは神童ピアニストとしてデビューし、10才で作曲を始めた。旅行もよくし、特にパリでは老年のケルビーニ、オペラ作家マイヤベーアのほか、リストやフンメルなどピアノの名手にも知己を得た。家には絶えず高邁な文化人が出入りし、音楽のみならず哲学や文学の素養が培われた。1829年にベルリン・ジングアカデミーを指揮してバッハの《マタイ受難曲》を上演、大成功を博すも、ジングアカデミーの音楽監督の地位は手に入らず、35年にライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となって、ここにようやく活動拠点を見出した。
メンデルスゾーンは作曲の規範を古典派、とりわけモーツァルトに学んだ。 また、バッハやヘンデルなどの対位法も深く研究した。いっぽうで、文学に主題を求め、標題を冠した作品を数多く残したところは、ロマン主義的気質を示している。ピアノ作品にもこの両方の傾向が顕れている。ピアノが彼個人にとって最も大切な楽器であったことは、独奏曲の大半がピアノ作品であることからも判る。様式も多岐にわたり、小規模で親しみやすいさまざまの形式のほか、3曲のソナタ、変奏曲、幻想曲など大規模作品も残している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。昭和音楽大学器楽学科ピアノ演奏家コース卒業。幼少の頃より、国内外のコンクールにおいて優秀な成績を収め、第26回ピティナ・ピアノコンペティション全国決勝大会G級銀賞等、多数のコンクールにて上位入賞を果たす。イタリア、ニュージーランド、および日本国内の各地にて数々のソロリサイタルおよび演奏会に出演、好評を博す。昭和音楽大学附属ピアノアートアカデミー在籍。