メンデルスゾーン 無言歌集 Op.38 第6曲 変イ長調 デュエットの動画集です。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ワーグナーが「第一級の風景画家」と言ったように、メンデルスゾーンは情景描写や標題音楽の作曲において才能を発揮している。この“言葉のない歌曲”、「無言歌」、という形でメンデルスゾーンは心象風景や感情描写までも、表現した。歌曲風の旋律をもった器楽曲であるため、旋律線をはっきりと浮き立たせ、抒情的に演奏することが重要だろう。メンデルスゾーンが活躍したこの時期、ブルジョアジーの家庭を中心に、ピアノが教養として普及した。そのため、家庭で気楽に弾ける作品が多く作られたが、この《無言歌集》もその一つである。《無言歌集》は各6曲ずつの計8集からなり、生前に出版されたのは、第6集までである。第7集は、1851年、第8集は1867年に出版された。1832年、第1集を出版したときには、メンデルスゾーンは、《ピアノのためのメロディー》と記しており、《無言歌集》の名称をもつようになったのは1835年に第2集を出版してからのことであった。標題をもっているものが多いが、作曲者自身によってつけられたものはわずかである。実際、メンデルスゾーンは標題をつけることによって、音楽的な想像力が限定されることを嫌っていたようだ。
6.変イ長調「デュエット」 / op.38-6 (1836)。6曲中唯一、メンデルスゾーン自身によって命名された作品。テンポはゆっくりめであるが、動きはゆるやかではない。「常に両声部をくっきりと際立たせなければならない」と記されており、装飾声部を均質に演奏しながら、2つの主要な旋律をはっきりとうきたたせることが大切だろう。技巧的な曲である。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ドイツロマン派の作曲家。ベルリンの富裕なユダヤ系の銀行家に生まれた。姉も音楽家となった。フェーリクスは神童ピアニストとしてデビューし、10才で作曲を始めた。旅行もよくし、特にパリでは老年のケルビーニ、オペラ作家マイヤベーアのほか、リストやフンメルなどピアノの名手にも知己を得た。家には絶えず高邁な文化人が出入りし、音楽のみならず哲学や文学の素養が培われた。1829年にベルリン・ジングアカデミーを指揮してバッハの《マタイ受難曲》を上演、大成功を博すも、ジングアカデミーの音楽監督の地位は手に入らず、35年にライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となって、ここにようやく活動拠点を見出した。
メンデルスゾーンは作曲の規範を古典派、とりわけモーツァルトに学んだ。 また、バッハやヘンデルなどの対位法も深く研究した。いっぽうで、文学に主題を求め、標題を冠した作品を数多く残したところは、ロマン主義的気質を示している。ピアノ作品にもこの両方の傾向が顕れている。ピアノが彼個人にとって最も大切な楽器であったことは、独奏曲の大半がピアノ作品であることからも判る。様式も多岐にわたり、小規模で親しみやすいさまざまの形式のほか、3曲のソナタ、変奏曲、幻想曲など大規模作品も残している。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
日本のピアニスト。1953年パリ国立音楽院をプルミエ・プリを得てピアノ科卒業。1958年マリア・カナルス国際コンクール第一位。1960年日本でデビュー以来国内外で絶え間なく演奏活動を続けて今日にいたる。レパートリーは古典、ロマン派から現代に及びぶ。 国内のほとんどの主要オーケストラと協演し、国外でも多くの大都市のオーケストと協演。協奏曲のレパートリーは40数曲に及ぶ。1975年度福山賞。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より