シューマン 幻想小曲集 Op.12 全曲の動画集です。
艶やかで、透明感のある美しい演奏です。
この曲集は8曲からなり1837年に作曲され、それぞれに標題がつけられている。
1. 「夕べに」 / "Des Abends"。冒頭のこの曲はピアノ音楽にとって一番効果的な変二長調で書かれている。旋律も構成もいたってシンプルで淡々と同じ音型が繰り返されるが、そこから時間を忘れてたたずんでしまうような夕べの情景が醸し出される。「Sehr innig zu spielen」とは「非常に心から弾くこと」という指示で、シューマンも多くのドイツ人のようにとても夕暮れ時を愛していたことの表れといえよう。
2. 「飛翔」 / "Aufschwung"。力強い冒頭の主題や、次の長調に転じて現れる軽やかな主題が、 想像力や幻想力の自由で力強い飛翔を感じさせる。単独でも頻繁に演奏されている。
3. 「なぜ」 / "Warum"。この曲は冒頭から属7の和声ではじまり、切ない疑問を投げかけるようである。しかし呼応する内声は力なくその終わりを待たずに次の問いかけがはじまる。情熱的な心の叫びというよりはため息と共に自分の内面に切々と問い掛けるような一曲である。
4. 「気まぐれ」 / "Grillen"。この曲の指示は「Mit Humor(ユーモアを持って)」だが、ドイツ人のユーモアとは独特である。他人を意識したというよりは、あまりにも真面目すぎることから醸し出されるある種の滑稽さといえるだろうか。三部形式の冒頭部は2つの主題からなり、はじめは大真面目で重々しい和音進行、次の部分では上声の流れる旋律に対して不器用な和音を伴うリズムがチャチャをいれるようである。中間部はどことなくはっきりしない二度音程の行き来で他の曲にも多いが内面に問い掛けるように進み、標題どおり気分がころころ移り変わる様がおもしろい一曲である。
5. 「夜に」 / "In der Nacht"。終始一貫して16分音符がうねるように流れ続けて強い緊張感を生み出し、静かな夜ではなく、嵐の夜、もしくは悪夢にうなされているような印象である。三部形式冒頭部分では減7の和音が多くあらわれ、中間部では長調に転じ一見落ち着いたかに思えるが、伴奏部分にはやはり緊張感を醸し出す短二度音程が非和声音として使われている。曲集中最も長く、おそらく全体の核としての5曲目という配置だと思われる。
6. 「寓話」 / "Fabel"。寓話とは少々分かりにくい邦題だが、要するに現実の話ではない「おとぎ話」のことである。これもまた三部形式である。何ともシンプルな4小節のメロディーはこれまたハ長調で、非常に無垢で純真な印象を与える。対する16分音符のモチーフでは要所で弱拍にアクセントを与えてあり、無邪気にはずむ子供のように思える。中間部は短調になり和音の連打からメロディーが生まれ出る。左右で上向するパッセージはどこか掴みどころがなく、やはりこれは「寓話」だったんだと思わせられる。
7. 「夢のもつれ」 / "Traumes Wirren"。8曲からなる「幻想小曲集」の第7曲に収められているもので、1837年に書かれている。明るく軽やかで、練習曲風の性格の曲。中間部は和音で奏でられるが、それ以外の部分は16分音符の細かい音型で貫かれている。技術的には、右手の4と5の指を交互に動かす箇所が非常に多く、弾きにくいことこの上ない。このため「夢のもつれ」というタイトルを「指のもつれ」などと皮肉って呼ばれることすらある。それでも、鮮やかに夢が交錯する魅力的な曲なので、単独で採り上げて演奏される機会のとても多い曲である。
8. 「歌の終わり」 / "Ende vom Lied"。技巧的な要素が強く感じられる前曲とは対照的に、この曲は終始旋律的であり、また、和音によるシンフォニックな音響に支えられている。半音進行が印象的な中間部を経て再現してのち、曲は終ったかに感じるが、その後にやや長いコーダが続く。弱音で回想的にテーマが奏でられ眠りにつくように、静かに曲を閉じる。
「ピティナ・ピアノ曲事典」より
ドイツの作曲家、音楽評論家。ロマン派音楽を代表する一人。
鋭い感性と知性に恵まれていたシューマンは、ホフマンやジャン・パウルなどのロマン主義文学からも深い影響を受け、その作品は、ドイツ・ロマン主義の理念を、音楽家として最も純粋な形で表現し、その精髄を示しているといわれている。ピアノ曲からスタートしたが、歌曲・交響曲・室内楽作品にも名作が多い。若くして手を壊してしまったロベルトは妻であるクララが演奏することを念頭に入れて後半生はピアノ作品を作曲したとも言われている。
人格的に二面性を持ち、評論家としては、自己の二面的な気質を利用して「フロレスタン」「オイゼビウス」という2つのペンネームで執筆していた。
アルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。1955年、アルゲリッチの演奏を聴いたフアン・ペロン大統領は、彼女に優れた音楽教育を受けさせるため、外交官であった彼女の父親にウィーン赴任を命じたほどの才能を示していた。家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。1969年、シャルル・デュトワと結婚し(2度目)、娘をもうけるが、来日の際に夫婦喧嘩となり、アルゲリッチだけが帰国し離婚した逸話もある。後にピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。
ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり室内楽に活動の幅を広げる。ヴァイオリニストのクレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。
1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。1998年から別府アルゲリッチ音楽祭、1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール、2001年からブエノスアイレス-マルタ・アルゲリッチ音楽祭、2002年からルガーノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。